自分の十字架を担う

論壇:        自分の十字架を担う        5/3/2020
イエスは自分がエルサレムで逮捕され殺されるという予言を、3度も繰り返して弟子たちに教えました。これをマタイ・マルコ・ルカは3回同じように繰り返しています。3回という数字は、イエスがこの話を何度も何度も繰り返したということです。それほどイエスの受難予言は印象深いものとして弟子たちの記憶に残ったのでしょう。その中で死刑の具体的方法として十字架に言及しているのはマタイの三回目だけです(20:19)。さらに「自分の十字架を背負って私に従いなさい」も平行記事としてマタイ・マルコ・ルカに共通していますが、「背負う」が原文では3つの異なった言語で書かれています。従ってこの発言はイエス死後の、弟子たちによる挿入文で、イエスの発言ではないと主張されます。・・・・・・・・・・・①
確かにイエスの十字架刑は予定された死刑方法ではありませんでした。神冒涜罪や偶像礼拝罪に対する死刑執行方法は「石打」によるものだったからです(申命記13:11、17:5)。従ってイエスは本来なら、ステファノのように石打刑で殺されたはずです(使徒言行録7:59)。しかしこの時たまたまローマ軍の兵舎には3人の死刑囚がおり、当時の過越祭の習慣として、民衆の希望する囚人が一人釈放されることになっていましたので、イエスの代わりにバラバが釈放されました。このバラバのための十字架が神の摂理によってイエスの十字架となったのです。
そうすると、石打刑で殺されるはずのイエスはなぜ「十字架を担う」と繰り返し語ったのかという問題が出てきます。イエスは千里眼だったから自分の死に方が分かっていたのだ、と簡単に言う人もいます。・・・・・・・・・・・・・・・・②
実際には①でも②でもありません。実は十字架刑はイスラエルでたびたび起こった処刑方法です。BC165年頃に起こったマカベア戦争では、反乱軍のユダヤ人たちが大勢十字架にかけられましたし、ローマ軍への反乱は何度も起こって、その都度首謀者たちは十字架で殺されました(ヨセフス『古代史』12:5:4、20:6:2)。十字架刑とは死ぬまで十字架にかけっぱなしで、長い場合は3日も生き延びることもあるという、人類史上最も残虐な死刑方法です。蛮族によるローマへの反逆罪に適用された刑で、ローマ市民には適用されませんでした。
パレスティナの人々はこの極刑を何度も見ていたのだということを理解しますと、「十字架を担う」ということが恐ろしい現実味を与えてくれます。十字架は決して犠牲的精神とか苦痛を耐え忍ぶというようなロマンチックな表現ではありません。残虐さの極みにある死を覚悟するという意味です。それは自己を完全に捨ててイエスに従うということを、当時の読者に最も良く悟らせる表現でした。
もちろんイエスは、全人類に対する神の呪いを一身に引き受けることを承知していました。「人の子は十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26:2)。イエスは「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」という律法を(申命記21:23)成就することが自分の使命であると自覚しておられました。 ・・・・・・③
イエスは「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)。十字架はファッションではありません。すべてを捨てて、死に至るまでイエスに従うかと、十字架は私たちに問いかけています。

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