聖なる者となれ

論壇:         聖なる者となれ        8/11/2019

レビ記の中心的な教えは、「祭司が罪を贖う儀式を行うと、彼の(彼らの)罪は赦される」(4:20、26、35、5:6、10、13、16、18、26)。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」(10:10)。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(19:2、20:7、8、26、21:8、15、23、22:9、16、32)です(8/4週報論壇)。

しかし私たちは「聖なる者になれ」と言われて「はいそうします」などとは決して言えません。聖なる方はこの世でただ一人の神様だけで、私たちはこの方との関係が生じた時に「聖なる神様と関係付けられた者」すなわち「聖なる者」となるのです。

聖という概念は「全く他のもの」、「私たちの世界とはまったく違った何かに触れるときに聖なるものは立ちあがる」とルドルフ・オット(1869ー1937、ドイツの宗教哲学者)は言います(『聖なるもの』)。我々はすべて被造物ですから「全く他のもの」とは結局「創造主」つまり神様ですが、宗教学の議論で「神」と言っては議論が続きませんから、このように言い換えるのです。

人間は神にかたどって創造され(創世記1:26)聖なる状態でした。しかし堕落によって神の元から追放され、「呪われた自然」の中で罪と戦う生涯を送るように運命付けられました。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:7)。

神は堕落した人類の中から、一方的な恵みと憐れみによって「選びの民」を創造し、俗なる者から聖なる者へと造り変えようとされます。それは「俗なる者」からの分離で、そのために衣食住と礼拝のやり方すべてにわたって、聖なる生き方を具体的に、手取り足とりして教えられます。それが出エジプト記とレビ記に書かれた神の教育マニュアルで、これらは人間が心身両方で「罪を支配し」「罪から遠ざかり」「聖に近づく」方法なのです。

レビ記に書かれている「献げ物」のマニュアル、「清いものと汚れたもの」の区別、保健衛生、汚れからの清めの方法などは、現代人の目から見ると不合理と思われるものもありますが、合理的説明はできなくとも「神がそのように命じられたのだから」と従う姿勢こそが、聖なるものを皮膚感覚で理解する最善の方法でしょう。

レビ記に書かれている禁止事項を知らない、従って善悪の区別、性倫理を知らないのがカナンの先住民です。彼らの生活がどれほどおぞましい生き方か、獣と変わらないその姿を想像するなら、レビ記の戒めが「人間が人間たる」必要不可欠のものだと分かります。

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