人が人であるための律法

論壇:      人が人であるための律法      8/18/2019

レビ記の17-26章は「神聖法集」と呼ばれます。これは「神聖法典」「聖潔法典」とも呼ばれますが、英語ではHoliness codeと言います。

この部分に有名な二つの慣用句が出てきます。それは「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(19:2、20:7,8,26、21,8,15,23、22:9,16,32)(論壇8/11参照)。もう一つは「わたしはあなたたちの神、主である」という特別な言い方です(18:2,4,5,6,21,30、19:3,4,10,14,16,18,25,28,30,31,32,34,36,37、20:7,8,24、21:12、22:2,3,8,30,31,33、23:22,43、24:22、25:17,38,55、26:1,2,13,44,45)。これらは非常に重大な真理を教える時の慣用句で、新約聖書の「よくよくあなたがたに言っておく」というイエスの言葉に匹敵します(原文では「アーメン、アーメン、私は言っておく。」)。

この部分に出てくる禁止事項がなぜ書かれたのか。それはカナンの地の住民によって日常的に行われていた生活習慣、性倫理を戒めるためだからです。近親婚はエジプトでは父と娘、兄と妹(異母妹、異父妹を含む)の結婚は当たり前でした。中世ヨーロッパでは教会法によって最初は4親等、後には7親等の決まりがありましたが、貴族階級では近親婚が普通に行われていました。どこの国においても近親婚は劣勢遺伝を招くという長年の生活の知恵から避けられるようになりましたが、それは性倫理の観点からではありませんでした。聖書の教える性倫理は劣性遺伝という実体験的知恵によるものではなく、神からの命令としてとらえた点に特色があります。

「動物と交わる」という獣姦は古代世界の神話に多く出てきますが、宗教儀式として行われる場合もありました。異類女房という怪しい物語は世界中にありますが、日本の「鶴の恩返し」「里見八犬伝」「浦島太郎」もこのジャンルです。聖書は人と動物との絶対的な違いを教え、「人が人である」ことをこのような禁止事項によって教えます。弱肉強食、略奪婚のカナンでは、戦争で奴隷になった後、死ぬまで女を見る機会がないという鉱山奴隷もいて、動物として生きていかざるを得ない人間が多くいました。このような性倫理における常識的な決まりのないカナンの地に入っていくにあたって、イスラエルは「聖なる者」としてどのようにふるまうことが正しいのか。それは生活の知恵から出て来るものではなく、全く聖なる方である神様から教えられなければ分からないものでした。

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