神は愛

論壇:     仏式葬儀とキリスト教葬儀     1/20/2019

14日に兄(71歳)が脳梗塞で急逝したと連絡を受け、17日に行われた家族葬に行ってきました。お坊さんを呼ばないで、葬儀社から二人来て、自宅での納棺と出棺、斎場の手配をしていただきました。仏壇もない家での家族葬ですから、無宗教で行うのなら私もお手伝いができるかと思いましたが、葬儀社は仏教の習わしに従って一つ一つの儀式をされました。家は名古屋市瑞穂区で、この地方に昔からあるしきたりに従って、葬儀社は小さな規模のミニ葬儀を行ったわけです。私はただ成り行きを見ていただけですが、驚くような光景を見ました。

納棺時には白い「死装束」を苦労して着せました。天冠(額につける三角布)は額には着けないで棺の中に入れました。そして個人が寂しくないようにと、葬儀社の指示で生前の洋服、下着、帽子も入れました。驚くことに、故人の好物だったとかで、サバの味噌煮のパック、カップラーメン、饅頭、果物を次から次へと入れていくのです。あの世でおなかがすいたら困るだろうとの心くばりです。最後に「六文銭」と称するコイン(紙製?)を6個ティッシュに包んで入れていました。三途の川をわたる時の渡し賃だそうです。このような「心くばり」が葬儀にとって大事な事なのでしょう。遺族にとっては故人をていねいに扱ってもらえたという満足感が大事なのです。

小さな一軒家ですから、ひつぎは玄関の廊下に置きっ放しで、三畳の小さな部屋に、葬儀社がミニ祭壇を設置し、ろうそく一本を灯していました。私の焼香の順番が来た時には、焼香の代りにろうそくを1本もらい、それに火を付けて祭壇に立て、「悲しみのこの家に希望の光を与えてください」とお祈りしました。

今回のことでキリスト教葬儀の良さを改めて感じました。たとえば、仏式葬儀では読経は何を言っているのか、それぞれの行為は、なぜそうしなければならないのかなど不明ですが、キリスト教葬儀では「何をしているのか」が良く分かります。それは神礼拝、遺体の葬り、遺族の慰め、故人との社会的別れです。

仏式葬儀では死者を礼拝すること、その魂をいかにして未知で不安な「あの世」に送るかが中心ですから、何かをしてあげないと不安になり、多くの儀式が増えてしまうのです。しかしキリスト教葬儀では、故人の魂はすでに神の領域にあるのですから、人間側の努力によって「成仏」させることなどできません。命を造り命を取られる神様をひたすら賛美し、遺族の心に寄り添うのみです。神様を礼拝するのであって、死者礼拝につながるような要素は極力避けねばなりません。

pagetop