反キリストの霊

論壇:        反キリストの霊        1/13/2019

本日の説教テキストでは「キリストが肉となって来られたということ」を否定する異端への反駁が焦点となっています。この異端はどのような背景から登場してきたのでしょうか。

当時はギリシャ哲学の影響を受けて、「霊肉二元論」が思想界では一般的でした。物質的・肉体的なものは霊的なものと対立し、霊は善、物質は悪と考えられていました。従ってイエスが神であるならば「神が劣悪な肉体をまとうはずがない」という教説が生まれることとなります。これは「霊魂は肉体の牢獄に閉じ込められているが、死によって解放され自由になる」と、ギリシャ神学でも表現されていました。

「地上を歩いたイエスは神であったが、人間の姿を仮にまとっていただけ。十字架では人間イエスから神キリストが抜け出した後の抜け殻が十字架にかかっていた」という異端が教会の中に忍び込んできたのです。これは「仮現論」と言い、ギリシャ語δοκειν(ドケイン、~であるように見える)からドケティズムと呼ばれます。これでは神の御子の受難はなく、復活もないことになってしまいます。これは「全能の神が人間によって殺されることなど有り得ない」という、神を擁護しようとした、ひいきの引き倒しとも言えるでしょうし、合理的に十字架を説明しようとしたものでもあります。

「ナザレのイエスは復活した」という宣教の言葉によってキリスト教はスタートしましたが、それでは地上を歩いたイエスは神だったのか、人だったのか、という疑問が当然出てきます。イエスが神でなければ人を救う力はありません。しかし完全な人でなければ人類の代表者としての贖罪はできません。もしイエスが神と人との中間的な存在なら、それはもう人ではないのです。そのような存在が私たちの苦しみに同情できるはずはありません。

初期キリスト教会では「復活」が宣教の中心で、復活祭は最初期から祝われましたが、クリスマスはありませんでした。イエスが神であると同時に人間であったとはどういうことだったのか、これが「光より出でたる光、真の神より出でたる神」と「処女マリアより肉体をとり、人となり、…十字架につけられ、苦しみを受け」という神人両性を告白するニカイア信条(325年)となりました。そしてまさしく人であったイエスの人間性に目が向けられた結果、人として生まれることによって、真に人間となってくださったイエスの意味が分かり、クリスマスが祝われるようになったのです。

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