礼拝論8、聖餐式

論壇:      礼拝論8、聖餐式        5/27/2018

聖餐式は公的礼拝の中で、パンの小さな一切れを食べ、ワインを飲む儀式です。用いられるパンとワインは普通に商店で売られているものですが、司式者の「聖別の祈り」によって特別な霊の食物となります。

イエス・キリストは、ユダヤ人の最も大切な宗教行事である過越祭の食事の中で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、パンとワインを飲食することを命令しました(Ⅰコリント11:23~26)。これは後に「最後の晩餐」と呼ばれるように、イエスの十字架の直前に行なわれました。

イエスはパンとワインを「これはわたしの体である…わたしの血である」と象徴的に言われました(マタイ26:26~29)。その意味は、私たちが命を保つために肉の糧を食べるように、霊の糧であるイエスの体を私たちの体内に取り入れるのです。「食べる、飲む」という最も身近な行為を用いて、私とイエスが一体となることを感覚的に表現したのです。

過越祭と聖餐式の関係は私の『エデンの園のラピスラズリ』106~108頁に詳述しておきましたのでご覧ください。聖餐式については下記の大きな問題が存在します。

、聖餐論争:聖餐式におけるキリストの臨在、パンとワインの解釈については、宗教改革以来、下記の4つに大別されます。

カトリック教会(化体説):司式者の聖別の祈りによって、パンとワインは文字通りイエスの体と血に「聖変化」する。「信者はミサにあずかるとき、キリストの十字架上の奉献の神秘を思い、キリストのいけにえを司祭と共にささげる」(カトリック要理112)。つまりミサとはキリストをもう一度、くりかえし十字架につけることです。

ツヴィングリー(象徴説):パンとワインは聖変化しない。聖餐式の行為はあくまで象徴にすぎない。

ルター(共在説):パンとワインの実体は変わらないが、キリストの真の体と血は、パンとぶどう酒の中に、それと共に、それの下に実在する。

カルヴァン(聖霊説):聖餐式にあずかる信者の霊は、聖霊によって天上のキリストのもとに引き上げられ、そこにおいてキリストの血と肉に真実にあずかる。

、信者のみの陪餐か無制限陪餐か:近代のヒューマニズムの影響で、礼拝に出席した者は誰でも聖餐式にあずかることができるという風潮が出ています。これについては以前に皆様に配布した、2001年大会役員修養会での私の講演「聖餐論の現代的諸問題」をお読みください。持っていない人は受付からお持ちください。

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