8.15敗戦記念日に思う

論壇:     8・15敗戦記念日に思ったこと     8/19/2018

敗戦を終戦と言い換えるのは、敗戦という事実を直視させないための洗脳です。今年もマスコミによる一過性の8・15敗戦記念日の特集を眺めていました。いつものように平和、平和と叫んでいますが、この言葉の本当の大切さをもっと追究する姿勢がほしいものです。

ところで教会図書にある『マンガ、聖書時代の古代帝国』をパラパラ読んでいましたが、イスラエルという国は、なぜこれほど平和から縁遠い国だったのだろうと疑問が出てきました。神様は御自分の民を、大帝国が長い期間支配する安定的な(これを平和と言うなら)地ではなく、絶え間無く戦争が続く、パレスティナに連れてこられました。ここは東のチグリス・ユーフラテス川沿いのアッシリア、バビロンなどの大帝国と、西のエジプト帝国に挟まれた地で、両者が覇権を求めて進出して来る時、いつでも戦場になる地です。古代史の示すごとく、パレスティナは、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマなどの大帝国にいつも蹂躙され続けていました。さらに近隣の小国同志の争いはもっと頻繁にありました。

イスラエルの人々は戦乱が長く続く地で、真剣に平和を求めて祈りました。そして彼らは、自分の願う平和ではなく、神が求めておられる平和は何だろうと真剣に考えるようになったのです。私たちも経済や健康が安定している時は、真剣に平和を祈り求めることはありません。つまりこのような、生活が安定した時期の信仰は緊張感が薄れています。古代史の諸国もそうでした。生活が好調で安定しているなら、怠惰な平和に慣れっこになり、真の平和を求める必要はなかったでしょう。

平和はヘブライ語ではシャーローム、ギリシャ語ではエイレーネです。聖書の教える平和とは、神に対する人間の態度と無関係に与えられるものではなく、神が教える「義」を行うことによる、神との契約関係の正しさに基づくものです。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である」(イザヤ32:17)。

エイレーネは、人が他の人に話しかけることができる関係にあるという状態を表わす言葉です。個人であろうと国であろうと、相手に話しかけることができない状態は戦争の状態です。さらに私たちはいつでも神に話しかけることができる心の状態を持っているでしょうか。

余談ですが、エイレーネというギリシャ語は女性名詞で、イレーネがギリシャ女性に多い名前です。英語読みではアイリーン、フランス語読みではイレーヌです。イレーネ・パパスというギリシャの映画女優がいましたが、彼女の出演した「その男ゾルバ」「ナバロンの要塞」「風雪の太陽」などは、私の青春時代の懐かしい思い出です。(古いですね…)

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