聖書の霊感

論壇:          聖書の霊感論        3/18/2018

本日の説教テキストの「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(Ⅱテモテ3:16)は、「聖書は神の言葉である」という聖書の霊感論を議論する上で最も基本的な聖句です。「霊感」の原語は「セオプニュートス」で、これは「神が息を吹き込まれた」という意味です。神が泥人形に息を吹き込まれと、それが命を与えられ、人になったように(創世記2:7)、神は聖書記者に息を吹き込んでご自身の言葉を書かせられたので「聖書は神の言葉」です。しかしその解釈は様々です。

①言語霊感説:聖書の霊感は聖書の思想(宗教的指針)だけでなく用いられた言葉にも及んでいる。(逐語霊感説ともいう)

②十全霊感説:聖書の霊感は救いや信仰の事柄だけでなく、科学や歴史の領域にも及んでいる。

③機械的霊感説:聖書を書く時、聖書記者は無意識、恍惚状態になり、機械的に神が言われるまま、テープレコーダーのように速記した。従って記者の人格、教養、学識、言語能力は関係ない。

④有機的霊感説:神は聖書記者の教養、学識、言語能力、経験など、人格のすべてを用いて聖書を書かせた。また聖書には当時の庶民の流行歌も収録されているが(サムエル記18:7)、これは編集者の裁量(文学的センス)が用いられた。

さらに、聖書の霊感を別の表現で表すと、

イ:聖書に神の言葉がある(そうでない部分もある)。

ロ:聖書が示す宗教的指針が神の言葉である。聖書には物語、神話、詩、系図、歴史等もあるが、この目的に沿って解釈しなければならない

ハ:聖書は神の言葉になる=聖書は神の啓示を体験した聖書記者の証言の書であって、誤りうる人間の言葉に過ぎない。聖書を読む人に聖霊が働く時、そのつど聖書は神の言葉になる(新正統主義の霊感説)。

このように大変複雑な神学議論となりますが、日本キリスト改革派教会40周年宣言「聖書論」(1986年)を書かれた故矢内昭二先生は、その解説の中で次のように説明しておられます。「聖書はキリストについて証しする書ですから、聖書の霊感論はキリスト抜きにはできません。Ⅰペトロ書1:10、11にあるように、旧・新両約聖書は、神がすべての真理をイエス・キリストを通し、聖霊によって私達に啓示された書なのです。神はキリストを通して私達に語り、その御旨はこの聖書の中にあります。神の霊感は聖霊の霊感であり、それはキリストを指し示しているというように、三位一体的に説明しなければなりません。聖書はその書かれた目的に従って解釈しなければなりません。」(矢内昭二遺稿集55~60頁要約)

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