礼拝論3、説教

論壇:         「礼拝論3、説教」        3/4/2018

先週に引き続いて、公的礼拝の重要部分を構成する説教について考えます。キリスト教という宗教は、神の啓示を受けるために、ただ聖書を読み、説教を聞いていれば良いのではありません。私たちは自分で聖書を解釈し、聖書の解釈である説教を自分に適応させて聞くのです。

私たちが聖書を読む時、「聖書のこの文章は何を意味しているのだろうか、ここに書かれた出来事、歴史、登場人物の行動を通して、神は何を私に教えようとしておられるのだろうか」と考え解釈します。その時、聖霊なる神は私たちを導いて、応答(励まし、慰め、悔い改め、希望)を引き出させます。これが神と私たちの交わりで、神が今生きて働いておられることの証明です。

しかしその聖書解釈において、正しい文章の読み方と間違った読み方が出てきます。聖書の正しい解釈が正しい信仰者を造り、教会も正しい聖書解釈の上に成り立つのです。2000年のキリスト教会は、正しい聖書の解釈、理解という「伝統」を、信条、信仰告白によって生み出し蓄積してきました。だから聖書の説き明かしである説教も、これらの伝統に即して語るのでなければなりません。これを無視すると勝手な聖書解釈をする異端のキリスト教になってしまいます。

改革派教会の公的礼拝の説教は、ほとんどが連続講解説教です。私はこの教会での20年間、朝、夕、祈祷会で、『雅歌』を除くほとんどの箇所を講解しました。聖書の読み方にはえり好みがあってはなりません。旧約も新約も等しく読まねばなりません。

新来会者にとっては、説教が授業のように思えるかもしれませんが、故榊原康夫先生は連続講解説教をする理由について、「聖書の拾い読みでは正しい信仰は培われません。来週の説教は今日の説教の箇所の続きだと分かっているから、聴衆は期待して予習することができる。ラジオの連続ドラマのように、次も聞き逃してはならないと思わせるだけの説教をすれば良いのです」と言われました。

聖書は3000~2000年前に書かれたもので、当時の環境の中に置かれた者に向かって書かれたものです。「説教とは古代の文章を現代語に翻訳して語ること」という定義がありますが、私は「現代人を聖書の書かれた時代に連れて行くこと」と考えます。いずれにしても「今までこの聖句の意味が分からなかったけど、説教を聞いてよく分かった」と言ってもらえることは説教者にとって大きな喜びです。

説教が分かったということは聖書が分かったということ、そして聖書に聞き従う心が与えられたということです。

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