日本キリスト改革派教会の誕生

論壇:    日本キリスト改革派教会の誕生    4/28/2019

1941年、政府は宗教界管理のために、特に敵国のキリスト教を奉じる教会を監視するため、すべてのプロテスタント教会は合同し「日本基督教団」を組織するよう命令しました。それまでキリスト教会は宗教団体として文部省の管理下にありましたが、日本基督教団に属さない教会は結社として、警察の管理下に置くと圧力をかけました。

この圧力に屈した結果、プロテスタント諸教会は合同させられ、日本基督教団が創立されました(1941年6月)。統理の富田満牧師は伊勢神宮に参拝して新教団発足を感謝し(1942年1月)、天皇に拝謁する栄誉を賜ったと報告しました(1942年11月)。さらに大東亜戦争完遂のため教団は一丸となって奉じると決意を述べ、軍用機を献納したり、海軍・陸軍への多額の献金を呼びかけました。

最初教団にはそれぞれの教派の伝統を維持した「部制」を設けるということで、各教派はしぶしぶ納得して合同し、教団には11の部が存在しました。従って教団に共通した信仰告白などは存在せず、「教義の大要」という非常に簡単な信条だけとなり、教団はどのような信仰をもって一致しているのか、誰にも答えられないという状況でした。さらに教団合同の裏では、教団統理と文部大臣との間に密約がありました。それは3年以内に部制を廃止すると、統理が誓約書を提出していたのです。

1942年、この部制は廃止され、これに抗議した灘教会の岡田稔牧師(後の改革派教会創立者)は1943年3月、灘教会を教団から離脱させ単立教会となりました。これによって灘教会は結社として厳しい警察の管理下に置かれました。

1945年8月の敗戦とともに創立者たちは行動を開始しました。彼らは関東地区と関西地区でそれぞれ別々に準備会を続けていましたが、互いに連絡を取り、1946年4月29日、教団から離脱して日本基督改革派教会を創立し、第1回大会で「日本基督改革派教会創立宣言」を採択しました。

この宣言は神社参拝への悔い改め、非道な戦争に積極的に協力しアジアの諸教会を蹂躙したことへの罪の告白をした上で、これからどのような教会を立てるかということを内外に宣言したものです。横浜中央教会はこの創立の精神を忘れず次代に継承するために、毎年4月末にこの宣言を朗読しています。

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