復活、キリスト教の始まり

論壇:          復活         4/12/2020
イエス・キリストの十字架刑は、ユダヤ教の過越祭の時に行われました。この祭りでは羊が犠牲としてささげられますが、イエスは最後の過越祭の完全な犠牲としてご自身をささげられたのです。従ってキリスト教会ではこれ以後、犠牲をささげる礼拝ではなく、復活の主に会う礼拝を毎週ささげることになりました。
初代教会で毎週「週の初めの日」に行われる礼拝は「復活礼拝」または「主の日礼拝」と呼ばれましたが、過越祭に行われる礼拝を特別に復活日礼拝(ギリシャ語でパスカ)と呼ぶようになりました。しかしパスカという言葉はユダヤ教の過越(ペサハ)に由来しますので、ユダヤ教的色彩から区別するために、ニカイア教会会議において、復活日を春分の次の満月の次の日曜日と決めました。従ってこの日は移動祭日となり、今年は4月12日ですが、来年は4月4日となります。
イースターという英語は、ゲルマン神話の春の女神EostreまたはAustroが語源だと言われますが、確かなことは分かりません。キリスト教がローマ帝国に浸透していく中で、春に行われる復活日礼拝がイースターと呼ばれるようになったのでしょう。
弟子たちの伝道説教の中心的メッセージは「ナザレのイエスは復活した」です。パウロも「イエスと復活について福音を告げ知らせ」ました(使徒言行録17:18)。しかし当時のギリシャ世界では「肉体の中に閉じ込められている霊魂は死によって解放される」というのが一般常識でしたから、「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑った」のです(使徒言行録17:32)。なぜなら復活とは現在の肉体がそのままよみがえることだと思い込んでいたからです。それなら朽ち果てる現在の肉体、恥と苦痛に満ちた肉を再びまとうことになります。そこに真の救いはありません。
日本人が復活を理解できないのは「蘇生」との区別ができないからです。蘇生とは「死んだと思われていた肉体が生き返った」ということに過ぎず、その肉体は再び滅びてしまうのです。新約聖書の中で死人がよみがえる奇跡の話が6回あります。しかしこれらは蘇生であって、彼らは再び死ぬべき体に蘇っただけです。イエスの復活とはこれらとは全く異なり、「栄光の体への復活」であり、それはもう死ぬことのない体です。私たちの肉体は滅びますが、キリストの復活は後に続く私たちの復活の証拠、模範です。イエスを信じる者には死後に栄光の復活にあずかることができます。従って教会の使命は「主の復活の証人になる」(使徒言行録1:22)ことです。

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