マラキ書

 

論壇1:        マラキ書         5/2/2021

マラキは「私の使者」(3:1)という意味ですが、預言者の固有名詞かもしれません。時代背景は「総督」(1:8)という言葉がありますので捕囚帰国後で、ハガイ・ゼカリヤからそれほど隔たってはいない時期でしょう。マラキ書は旧約聖書最後の預言書です。

マラキ書の特徴は会話形式で書かれていることです。しかしその会話は神を怒らせます。神が「私はあなたたちを愛してきた」と言われると人々は「どのように?」と応答し(1:2)、この繰り返しが

1:6、7、2:17、3:7、13と続き、ついに人々は「神に仕えても何の益があろうか」(3:14)と、公然と神に反論します。

祭司たちは腐った肉を平然と犠牲として捧げ、形式的に神殿儀礼を守るだけです。これを神がお怒りになると「どのようにして御名を軽んじましたか?」「どのようにして儀礼を軽んじましたか?」と居直って反論します。これがマラキの警告に対する民の態度でした。

にもかかわらず神は忍耐して民をじゅんじゅんと説得されます。「神との契約を思い起こせ」「先祖の契約を汚してはならない」(2:4、5、8、10)、「モーセの教えを思い出せ」(3:22)。この神の忍耐とへりくだりに対して、いつまでも「どのように」と頑なに言い張っているなら、「炉のように燃える」恐ろしい主の日が来ます(3:19)。「義の太陽が昇ったら」(3:20)その時はもう遅いのです。

現代人に向かって教会が「神はあなたを愛しておられます」と言っても、人々は無視するか「ふんっ」と嘲るでしょう。また「神がいるならなぜこの世に悪があるのか」と反論してきます。もしいつまでも「どのように」と応答して神に突っかかって行くなら、それは神への公然たる反逆です。

私たちに対する神の絶えざる祝福は、一般恩寵(健康、職場、自然、四季の移り変わりなど)に現われています。神の忍耐とヘリ下りを軽んじ逆らうなら、神は祝福の手を引っ込まれてしまい、作物の不作、いなごの害(3:11)などを招くかもしれません。現代のコロナ禍は神の警告かもしれません。今こそ私たちは「主を恐れ敬う者」として「互いに語り合い」ましょう。教会でなされる賛美と信仰の証しを、神は必ず「耳を傾けて聞いて」くださいます(3:16)。

pagetop