歴史書としての旧約聖書

論壇:       歴史書としての旧約聖書     3/8/2020
旧約聖書は「歴史」を信仰によって解釈したイスラエル民族興隆の書です。この場合「歴史」という言葉で意味されるものはかなり複雑です。個人の伝記や私的日誌と対比して、国家や民族の公的歩みの記録を歴史と呼ぶ場合、創世記やルツ記は歴史書とは言えません。
また神話や作り話に対して「現実に生起した出来事とその経過を伝えるもの」とした場合、旧約聖書は神話集ではありませんから歴史書であると言えます。古代以来、すべての国は現実に起こった出来事を扱う場合でも、事件の記録を日記的に述べるのではなく、必ずある歴史哲学をもって取捨選択をして書き下ろすものです。
従ってそこには感情が入り込んできますから、日本史を書く場合でも「万世一系の天皇家の支配と、それにまつわる周辺の出来事」という歴史観をもって編集します。従って天皇家に都合が悪いものは取り上げず、戦争に関しても「日本は悪くない」という主観で書きますから、歴史教科書裁判が起こるわけです。現代日本のマスコミすべてが太平洋戦争の終結を「終戦」と呼び、決して「敗戦」と呼ばないのは、感情を排除して客観的な見方を教えてこなかった歴史教育のせいです。
旧約聖書の歴史記述に貫かれている歴史観は「預言者的歴史観」と呼ばれます。アブラハムを信仰の祖として立てられた神の民イスラエルは、神の奇跡の導きによって大いなる民族となったのに、民は偶像礼拝の罪により堕落し、神の怒りを招いて国は破れ、民は奴隷としてバビロン捕囚となってしまった。神は民の背きに対して繰り返し預言者を遣わし、悔い改めて神に立ち戻るようにと招かれたが、民は神を裏切って罰せられた。このことを教訓として、イスラエルは世界の全民族の代表として、歴史を支配される神の「慈愛と峻厳」とを伝えねばならない。
このモチーフ(主題、動機)によって編集されたのが旧約聖書ですから、他の国の歴史書と異なり、登場人物を英雄視せず、その欠点を赤裸々に描きます。また古代史上に起こった有名な三つの民族移動、BC13~11世紀頃のペリシテの民族移動、アラムの民族移動、イスラエルの民族移動について、現代の歴史ではそれぞれに因果関係を全く認めませんが、聖書ではこれらすべては神の導きだったと大胆に解釈しています(アモス書9:7)。
列王記下で、エルサレム包囲中のアッシリア王センナケリブは「主のみ使い」によって撃たれ逃げ帰った後、部下の反逆で殺された、と聖書は描きます(19:35~37)。しかし歴史的事実としては、センナケリブ暗殺は20年後の出来事です。聖書はこれを神の都を攻撃した王への神の罰として、因果関係をもって説明するのです。これが聖書の解釈です。

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