アブラハム

論壇:        アブラハム         3/10/2019

三大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)以外の宗教では、神は国、民族、家系、土地と結びつきます。例えば天照大神(あまてらすおおみかみ)は大和民族の神であって、韓国や中国の神にはなりません。日本人は大和民族の一員であるという理由で、現人神(あらひとがみ)天皇と結びつけられ、「天皇の赤子」として戦争に駆り出されていきました。

聖書の神は民族ではなく個人と結びつくという点がユニークです。創世記は、罪に堕ちた全人類が絶望の中から救われるには、神の救いの選びが必須であることを示します。しかしその選びは家系、民族という集合体ではなく個人が対象なのです。洪水から救われたノア家の堕落(9:21、22)、主の家とされたセム族の混乱(9:26、11:1-9)は、単なる家系や種族の選びでは成し遂げられないことを教えます。神の選びの対象は個人。これがアブラハム物語が教える神の選びです。

さらにその個人の選びは、親類縁者、生まれ育った土地からの物理的地理的隔離が条件となります。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)。その理由は「あなたたちの先祖は、アブラハムと…を含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた」からであると告げられます(ヨシュア記24:2)。

またこの選びは神が与える「契約」によって保障されます。契約という言葉は創世記の原歴史篇(1―11章)においてはノアへの言葉の中だけに出てきますが(9:9―17)、アブラハムからはひんぱんに出てきます。

この原歴史において、すべての人間が創造において甲乙なく平等であること、洪水とバベルによって全人類がすべて甲乙なく罪深いことを確認してから、アブラハムの召命を描きます。これが「ヤハウェの一方的な恩寵による選び」です。この選びは、契約による保証を危うくしそうな試練によって個人的に訓練されます。アブラハムは約束された土地を取得できず、寄留者として長い旅を耐えねばなりませんでした。

このように、試練によって選びは家系から個人にしぼられてゆきます。アブラハムを継ぐのはロトやイシュマエルではなくイサク。イサクを継ぐのは兄エサウではなく弟ヤコブ。ヤコブを継ぐのは、長男から次々に兄たちが退けられた後の、ヨセフが神の愛顧のまとに選ばれます。こうして遺棄(見捨て)と選びが個人的に明らかにされていきます。

個人の尊厳と自己決定権という個人概念はルネッサンス以降のものだとされます。聖書では個人の人格が最初から問題になっています。そして「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)という予定の教理に発展していきました。

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