論壇「ヨハネ福音書研究」

2015年9月より、朝の礼拝でヨハネによる福音書の連続講解をしています。
ヨハネによる福音書について、論壇に掲載されたものを下記にまとめました。
ご覧ください。

 

 
ヨハネ福音書研究
ヨハネによる福音書(9/6/2015)
本日からヨハネ福音書の連続講解説教を行ないます。この福音書の構造、著者の編集意図などを探ってみましょう。流刑地パトモス島から帰還し、エフェソで晩年を過ごしていたヨハネのもとに、多くの人々が集まりました。ヨハネはイエスの教えを弟子たちに聞かせていましたが、弟子たちはイエスの思い出を書き残すようにと頼みました。当時はすでにマタイ、マルコ、ルカの福音書が出版されていましたので、ヨハネは全く異なる編集方針で、当時のギリシャ思想の影響を強く受けているユダヤ人読者のために、「イエスが神の子メシアである」ことを論証しようとしました。
マタイ、マルコ、ルカは、イエスの宣教活動が「ガリラヤから始まり、エルサレムの十字架で終わり」という旅日記の枠組みで書かれていますが、ヨハネは全く違ったスタイルで書きました。イエスのエルサレム詣では、少なくとも5回あったように描かれています(2:13、5:1、7:10、10:22、12:12)。この書はヨハネが直接書いたのではなく、何日もかかってヨハネが口述し、速記者が筆記したのですが、ヨハネの弟子の誰かが編集したのでしょう。その人物は『ヨハネの手紙』の著者、「長老ヨハネ」だったかもしれません。
ヨハネ福音書梗概
プロローグ(1:1-18)古代教会の讃美歌を用いた序説、本論への前奏曲
第1部:しるしの書(1:19-12章)イエスの公生涯
最初の7日間(1:19-2:11):洗礼者ヨハネの証言、弟子集め、公の宣教への準備期間。イエスの宣教が、「しるし」と説教によって始まる。
最初のしるし=カナの婚礼で水をワインに変える(2:1-11)
第2のしるし=役人の息子を癒す(4:43-54)
第3のしるし=ベトザタで病人を癒す(5:1-9)
第4のしるし=五千人に食べ物を与える(6:1-15)
第5のしるし=ガリラヤ湖で水の上を歩く(6:16-21)
第6のしるし=生まれつきの盲人の目を癒す(9章)
第7のしるし(クライマックス)=死んだラザロを生き返らせる(11:38-54)
イエス、過越祭に最後のエルサレム入場をする(11:55-12章)
第2部:受難と栄光の書:(13:1-20:31)
最後の晩餐と告別説教:(13:1-17:26)
十字架:(18:1-19:42)
復活:(20:1-31)
エピローグ:(21:1-25)著者による執筆目的叙述

 

 

証しの一週間(10/4/2015)
ヨハネ福音書全体は大きく二つに分かれます。前半=「しるしの書」(~12章)、後半「受難と栄光の書」(13章~)。その中でも、1: 19~2: 11 は「証しの一週間」と呼ばれます。「ヨハネの証しはこうである」から始まり、「その翌日」を繰り返し、最後に「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行なって、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」で終わる、ひとまとまりの記事です。
この部分は、他の福音書にはない、洗礼者ヨハネについて詳しく紹介することから始まります。ヨハネは「ユダヤの荒れ野」でデビューしました(マタイ3:1)。当時のユダヤには、ファリサイ派とサドカイ派という大きな二つの派閥がありましたが(使徒言行録23:6)、そのほかにエッセネ派という、砂漠で隠遁生活をして暮らす修道僧の一団がありました。1947年、ユダヤのクムランの洞窟からクムラン教団の死海写本が発見され、大ブームを引き起こしましたが、この教団がエッセネ派だろうと言われます。
ユダヤ人たちは「メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」(ヨハネ7:27)と思っていましたから、荒野から登場したヨハネを、人々はメシアではないかと思って大騒ぎし、「エルサレムとユダヤ全土から」ヨハネのもとに集まったのです(マタイ3:5)。ヨハネは自分がメシアではないことを、くどいほど弁明しています。このヨハネに追随していた弟子たちの一団は、ヨハネが殺されたずっと後まで残っており、ついにヨハネをメシアであると考えるようにまでなったようです(使徒言行録18:25、19:1-7)。
証しの一週間
第1日:ヨハネの二つの証し
「ヨハネは何者か」(19-23)
「ヨハネの後から救い主が来る」(24-28)
2日:ヨハネの三番目の証し
「イエスが救い主であり、神の子だ」(29-34)
3日:ヨハネの弟子であったアンデレたちがイエスに従う(35-40)
4日:アンデレが兄弟シモン・ペトロにイエスを紹介する(43-51 )
5日:フィリポとナタナエルがイエスに従う(43-51)
6日:省略
7日または8日 (ユダヤの暦では、日没になると翌日になる)
:カナの婚礼で、水をワインに変える最初のしるし(2:1ー11)

 

 

神の子羊(10/11/2015)

洗礼者ヨハネはイエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と呼びました(1:29)。この「神の子羊」のラテン語訳 Agnus Dei(アニュス・デイ)は、その後教会の中で独特な使われ方がされるようになりました。 カトリック教会、聖公会、ルーテル教会などでは聖餐式文になり、ミサ曲の名前になりました。イエスは過越祭の羊(Ⅰコリント5:7)、受難のしもべ(イザヤ53:7)、勝利の羊(黙示録17:14)です。
右の図柄は「モラビア兄弟団」の紋章です。
このように十字架や旗を持つ羊という構図が、教会の中で多く使われました。ヨーロッパの教会や絵画に多く登場しますから、皆さんもどこかで見たことがあるでしょう。この紋章に書かれている英語の意味は「我らの羊は征服(勝利)せり。彼に従おう」です。
さて、ギリシャ語で貞淑、聖さを表す言葉はハグネー(αγνη)ですが、この言葉は女性名詞なので、女の子の名前につけられるようになり、アグネスとなりました。英語ではAgnesです。現代でもアグネスという名前は、ヨーロッパで人気のある女性の名前です。フランス語読みはアニェス、スペイン語読みではイネスとなります。
ローマ・カトリック教会では「ローマの聖アグネス」と呼ばれる聖人(291-304)がいますが、この女性はローマのディオクレティアヌス皇帝の迫害により、13歳で殉教したと伝えられます。聖アグネス教会という名前はこれに因んでいます。日本では、長崎市の浦上天主堂が被爆して焼けましたが、残された被爆聖アグネス像が現存していて有名です。このアグネス像は羊を抱いています。なぜでしょうか。
それはAgnesと、ラテン語Agnusが交じって用いられるようになり、聖アグネスが絵画に描かれる時、また像に彫刻される時には、必ず子羊を伴って描かれるからです(天使を伴う場合もある)。また処女で殉教したアグネスと、イエスの母マリアが混同され、イエスを表す羊とマリアとよく似たアグネスが合体したのでしょう。
聖書がイエスを羊として表すのは、ユダヤ人たちが過越祭には必ず羊を、自分の罪を取り除くための犠牲として献げてきたからです。すべての人の罪(世の罪)を取り除くことができるのは、神が用意された羊にしかできません。ヘブライ人の手紙では、イエスは「大祭司として、ただ一度、御自身をいけにえとして献げた」と説明します(7:26、27)。

 

ヨハネ福音書梗概 (「」は説教内容 10/25/2015)
プロローグ(1:1-18)
Ⅰ、しるしの書(1:19~12:50)
証しの7日間(1:19-2:11)
七つの奇跡
①カナの婚宴で水をワインに変える奇跡(2:1-11)
宮清め事件(2:13-22)
イエスとニコデモ(3:1-21)
イエスとヨハネ(3:22-30)
「天から来られる方」(3:31-36)
イエスとサマリアの女(4:1-42)
②役人の息子を癒す奇跡(4:43-54)
③ベトザタの池で病人を癒す奇跡(5:1-9)
癒しによって起こった安息日論争(5:10-18)
「御子の権威」(5:19-30)
「イエスについての証し」(5:31-47)
④5000人給食の奇跡(6:1-15)
⑤湖上歩行の奇跡(6:16-22)
「イエスは命のパン」(6:22-59)
「永遠の命の言葉」(6:60-71)
イエスの兄弟たちの不信仰(7:1-9)
仮庵祭でのイエス(7:10-53)
姦通の女とイエス(8:1-11)
説教集:「世の光」「真理を与える」「アブラハムの譬」(8:12-59)
⑥盲人を癒す奇跡(9:1-12)
盲人癒しから生じた論争(9:13-41)
「羊の囲い」(10:1-6)
「良い羊飼い」(10:7-21)
神殿奉献記念祭でのイエス(10:22-42)
⑦ラザロの死とよみがえりの奇跡(11:1-44)
奇跡によって引き起こされた、イエスを殺す計画(11:45-57)
ベタニアでの香油注ぎと、ラザロに対する陰謀(12:1-11)、
エルサレム入場と諸説教(12:12-50)
Ⅱ栄光の書(13:1~20:31)
弟子の足を洗う(13:1-20)
裏切りの予告(13:21-38)
「もっと大きな業を行なう」(14:1-14)
「聖霊を与える約束」(14:15-31)
「イエスはまことのぶどうの木」(15:1-17)
「迫害の予告」(15:18-16:4)
「聖霊の働きについて」(16:4-15)
「悲しみが喜びに変わる」(16:16-24)
「イエスは既に勝っている」(16:25-33)
大祭司の祈り(17章)
イエスの逮捕と裁判、死刑判決(18:1-19:16)
十字架と埋葬(19:16-42)
復活(20:1-29)
本書の目的(20:30-31)
エピローグ(21:1~25)

 

 

宮清め(11/8/2015)
本日の説教個所(ヨハネ2:13-22)は「イエスの宮清め」と呼ばれています。エルサレム神殿境内の「異邦人の庭」と呼ばれている場所で、犠牲に献げる動物が売られ、また外国の貨幣をイスラエル通貨のシェケルに両替する店が軒を連ねていました。これらは旧約聖書のレビ記22:20、出エジプト記30:13などに明瞭に命じられていることです。しかしイエスはこれらから生じた「商売」に怒り、商人たちを追い出しました。これはモーセ律法を否定するものでした。
この記事は四福音書のすべてに書かれています(マタイ21:10-17、マルコ11:15-19、ルカ19:45-46)。昔から問題になっているのは、マタイ、マルコ、ルカでは、イエスの最後のエルサレム入場の後に起こった事件として描かれており、この後イエスの十字架へと続きます。
ヨハネでは、イエスはエルサレムの様々な祭りに出席していますが、その内の5回が記録されています(過越祭2:13-22、?5:1、仮庵祭7:10、神殿奉献記念祭10:22、過越祭12:1、12)。この宮清め事件はイエスが公の宣教活動にデビューして間もない頃、最初にエルサレム神殿に行った時に行ったように描かれています。
またヨハネは、イエスの「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という言葉が、この宮清め事件と同じ日に言われたと書いています。だからこの言葉は、この事件の2~3年後に開かれたイエスの裁判の時には、民衆の記憶があいまいになっていて、「この男が、『私は人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った」(マルコ14:58、59)という結果になりました。
結局、宮清め事件はイエスの最後のエルサレム訪問の時に起こった事件ですが、ヨハネはすでにマタイ、マルコ、ルカの三福音書が読まれていることを前提に、この二つの事件をまとめてヨハネ福音書の最初の方に載せたのでしょう。従ってイエスは公生涯の最初の過越祭に宮で「この神殿を壊してみよ」と預言され、生涯最後の過越祭には宮清めをなさったのです(榊原康夫『ヨハネ』)。
さて上記の5回の祭りのうち5:1が何の祭りだったかは不明で、大きな議論となっています。私も?をふっておきました。この祭りが過越祭だとするとイエスの公生涯は3年となりますが、別の祭りであるならば、その場合には2年となります。

 

 

イエスの言葉かヨハネの言葉か(11/22/2015)
9月6日から、ヨハネ福音書の連続講解説教を10回行なって2章まで終わりました。1回の説教テキストの長さを決めることは、結構面倒臭い作業です。共観福音書と比べるとヨハネ福音書は一つの言葉の裏に深い意味が隠されていることが多いので、長い文章をテキストにすると、広く浅い説教になってしまいます。しかしテキストを短く切ると、ヨハネ福音書を終えるのに何年もかかってしまいます。
故榊原康夫先生の場合は全97回、2年4カ月をかけておられます。横浜西口時代の前任者鈴木牧雄先生は、1986年末からヨハネ福音書の連続講解説教をされましたが、2年1カ月でした。私は旧約聖書を重視しますが、定年までに歴史書の説教をしたいので、ヨハネ福音書は1年半ぐらいで読了できたらと思います。
しかし本日のテキスト、3章1節から21節までの個所は、イエスとニコデモの会話を用いて、ヨハネが三位一体論を巧みに展開する有名な場面ですから、3回に分けて話さざるを得ません。
1~8:聖霊論=「霊」という言葉が4回、「風」という言葉が1回登場します(ギリシャ語でもヘブル語でも、霊と風は同じ)。
9~15:「人の子」イエス・キリストの十字架と昇天。
16~21:「神」が主語で、神が御子を世に遣わされたという、神の救いの業が展開されます。
ヨハネ福音書の特徴は、イエスの言葉なのかヨハネの説教なのか判然と区別出来ないことです。イエスの十字架からおよそ70年後に書かれたのですから、ヨハネの中ではイエスから直接聞いた言葉がヨハネの中に取り込まれて、完全に自分の言葉になってしまったのでしょう。イエスの言葉はヨハネというフィルターを通して紹介されるのです。
従って、ニコデモが自分を「わたしども」と複数形で発言し、イエスが自分を「わたしたち」と呼ぶのは、ここにユダヤ教のシナゴグ(会堂)とキリスト教会の対立を表現しているのだとか、イエスが自分のことを「御子」と呼ぶのはおかしいので、この部分(3:16-21)はイエスの言葉ではなくヨハネの説教だと批判するのは筋違いです。
さらに「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5)という言葉は、教会の洗礼式を背景にしているので、イエスの発言ではない、という批判も当たりません。なぜなら水は清めること、これには悔い改めが前提ですから人間側のなすこと、霊は神からの力の行使による新生の象徴で、二つは一組のセットなのです。

 

 

永遠の命(12/6/2015)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3:16)。本日の説教は最も有名な文章を扱います。ルターはこの個所を「小型の福音書」と呼びました。多くのクリスチャンがこの言葉を愛しています。
さて「永遠の命」という言葉ですが、「永遠の」という言葉は新約聖書に71回登場しますが、福音書では37回で、大部分はヨハネ福音書とヨハネの手紙に登場します(22回)。ヨハネは永遠という言葉を「命」とのセットで使い「永遠の命」以外の用法はありません。このセットの言葉はマタイとルカでは3回、マルコでは2回だけ登場します。マタイは「永遠の火」「永遠の罰」、マルコは「永遠の責め」、ルカでは「永遠の住まい」という「際限無く長続きする」という意味でも使います。つまりヨハネ以外の福音書では永遠という言葉を良い意味にも悪い意味にも使うのですが、ヨハネでは長続きするという意味合いはありません。ヨハネにとって永遠とは命のことで、キリストに属する者になるということが永遠の命を得ることであり、キリストを信じるならば、今現在、永遠の命に生きているのです。
ヨハネ福音書が書かれた紀元100年頃は「グノーシス」という異端宗教が生まれ、教会に大きな影響を与え始めた時代です。これは物質は悪、霊は善という二元論で、物質としての宇宙は悪の神が造ったから、天上世界の知識を持つことによって精神世界へ逃避せよと教えました。従って肉体をもってこの世に生まれたイエスを否定します。ヨハネは「偽預言者が大勢世に出て来ている。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たもの」と警告しました(Ⅰヨハネの手紙4:2)。
ユダヤ人たちは、聖書の律法を守ることによって永遠の命が与えられると信じていましたので、律法を具体的な生活にあてはめ、多くの口伝律法を創り出しました。イエスは「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と言われました(5:39、40)。
永遠の命はキリストの中にあるのです。イエス・キリストを私の救い主だと信じると永遠の命が得られます。しかしイエスを信じるとはどういうことでしょうか。それは、イエスは私が受けねばならない罪の刑罰を、私の身代わりになって、十字架で受けてくださったと信じることです。ここには罪の自覚と悔い改めがなければなりません。この悔い改めは、讃美と礼拝、祈りと献身、教会に仕えることによって、具体的な信者の生活の中に現われて来るはずです。

 

 

「信じる」とは( 1/24/2016)
ヨハネはイエスの多くの奇跡の中で7つだけを紹介し、その最初の二つだけを「最初のしるし」(2:11)、「二回目のしるし」(4:54)と呼びます。この2回のしるしの間に「信じる」という言葉が繰り返し使われています。「弟子たちはイエスを信じた」(2:11)、「弟子たちは…聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)、「女の言葉によって、イエスを信じた」(4:39)「イエスの言葉を聞いて信じた」(4:41)、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(4:50)、「彼もその家族もこぞって信じた」(4:53)。それぞれどう違うのでしょうか。どうやらヨハネは、信じるという信仰には三つの段階があると言っているように思えます。
第1段階は「イエスは普通の人間ではない。特別な神の力を持っている」ということを、しるしを見て、またうわさを聞いて信じる段階です。サマリアの人々は女の証言によってイエスを信じましたが、イエスという預言者が存在することを承認したという段階でしょう。ヨハネ4章の役人は、瀕死の息子をかかえていましたが、イエスのうわさを聞き付け、藁にもすがる思いでイエスを信じ(すがり)、30Kmも離れたカファルナウムからカナへやって来ました。これだけでもかなりの信仰と言えるでしょう。しかし彼の信仰では、イエスが足を運んで、直接息子にふれて癒さなければ助からないと思っていますから「子供が死なないうちにおいでください」と頼んでいます。イエスの神通力は死人にはきかないと思っています。
第2段階はイエスの言葉を信じるという信仰です。役人は「あなたの息子は生きる」と保証したイエスの言葉を信じました。つまりイエスの言葉には、リモート・コントロールによって癒す力があると信じて帰って行きました。
第3段階は、イエスの言葉が真実であったことを確認して、今までのイエスへの信仰が固まり、命を与えることのできる方、つまり神としてイエスを信じる段階です。役人は家族に伝道し、彼の確信に満ちた証しを聞いた家族も信じました。つまり彼の信仰は家族の心も変える力を持ったのです。家族はイエスを見たわけでもないし、イエスの言葉を聞いたわけでもありません。役人は心も性格も表情も変わってしまったのでしょう。それを見た家族は、このように彼を変えた力を見てイエスを信じました。
イエスが地上におられない現代の私たちには、第1・第2段階による信仰はありません。役人の家族と同じ立場です。信じるとは単なる知的承認ではありません。信じるとは、イエスと私の間に「依り頼む」人格関係が、聖霊の働きによってできることです。私たちは聖書の証言によって、私に新しい命を与え、私を罪から救ってくださるイエスを、救い主として信じるのです。

ヨハネ福音書5:19-30のキアスマス構造(2/7/2016)
私が用いるヨハネ福音書の注解書は、英書ではRaymond Brownですが、本日の説教個所について、下記のような平行句があると言います。
26~30節                       19~25節
26  父と子が共に持つ、    命を与える権能       21
27     〃         裁きを行なう権能      22
28 「驚くことになる」    「驚いてはならない」     20
28  「時が来ると」      死人が子の声を聞く 25
29 「善人は復活して」    「その声を聞いた者は生きる」 25
30 子は自分では何もできない。 父の御心を行なう      19
私はむしろ、下記のようなキアスマス構造を発見しました。キアスマスとは古代から存在する文章記憶術の一種で、ピラミッドの底辺から順に上に上って行き、頂点で重要な文章を強調して、またピラミッドの反対側を順に降りてくるかのように、似た文章を逆に並べるという文章構造です。詳しくは拙著『聖書随想、エデンの園のラピスラズリ』を御覧ください。受付で販売しています(700円)。本日の該当個所で強調されている文章は e、e’で表示した、24、25で繰り返されている「はっきり言っておく」原文では「アーメン、アーメン、私は言う」です。
「24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
a 子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。(19)
b 父が死者を復活させて命をお与えになるように、(21)
c 父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 (22)
d 子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 (23)
e はっきり言っておく。…わたしをお遣わしになった方を信じる者は、
永遠の命を得、…死から命へと移っている。(24)
e’ はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今や
その時である。その声を聞いた者は生きる。(25)
d’ 父は、子にも自分の内に命を持つようにしてくださった。(26)
c’ また、裁きを行う権能を子にお与えになった。(27)
b’ 善を行った者は復活して…、悪を行った者は復活して…(29)
a’ わたしは自分では何もできない。(30)

 

 

エゴー・エイミ(2/28/2016)
ヨハネ福音書6:20で、湖上を歩いて来たイエスは「わたしだ。恐れることはない」と言われます。この「わたしだ」は、原文のギリシャ語ではEγω ειμι(エゴー・エイミ)ですが、英語では”It is I”と翻訳されます。ヨハネ福音書ではこの言葉がくりかえし登場しますが『わたしはある』と、わざわざ『』付きで書かれています(8:24、28、58、13:19、18:5、6、8など)。
特にイエスがこの言葉を言うと、イエスを逮捕しようとした兵たちがバタッと倒れてしまいます(18:6)。これは神様の自己紹介の言葉だからです。神様はご自分の名前をモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と知らされます(出エジプト記3:13、14)。これを英語では”I am who I am”または”I am what I am”と訳しますが、ギリシャ語訳では「エゴーエイミ」なのです。無から有を生じさせる神様の名前は、存在する者の根源であり、神様はなろうとするものになれる方であることを意味しています。「わたしはある」と言える方は、「わたしは~である」とも言える方です。
イエスは「わたしは~である」と何度も言われます。「わたしは命のパンである」(6:35、48)、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(6:51)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは門である」(10:9)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)、「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:8)、「わたしはダビデのひこばえ、…輝く明けの明星である」(黙示録22:16)。
これを私達の自己紹介の言葉と比較すると、ことの重大性が分かります。「私は日本人である」「私は男である」などとは言えても、「私は道である」、「私は光である」などとは決して言えません。イエスだけが「私は~である」。この「~」のところに、イエスが望まれるすべての名称が入るのです。従って「私はある」という言葉が、私たちの思考力に合わせた神様の自称であると分かります。
真っ暗闇の嵐の中、荒れ狂う湖、小舟の中で恐怖に震えている弟子たちにとって、どんな言葉が慰めになったのでしょうか。それは「わたしである」という神の声を聞くことだけでした。湖を作り、嵐を作り、命を造る方、神様が側にいてくださる。この方を私の人生というボートに迎え入れるならば、私の人生が直ちに「目指す地に着く」のです。

 

 

命のパンとエデンの木の実(3/13/2016)
ヨハネ福音書6:22~59でイエスは「私は命のパンである」(35、48)、「天からのパン」(31、32)、「まことのパン」(38)、「神のパン」(39)、「天から降って来たパン」(41、51、58)と言われます。この言葉について大昔から、旧約聖書の言葉や出来事と比較する研究が多くありました。古くはニュッサのグレゴリウス(335年頃-394年頃、カッパドキア三教父のひとり)が、イエスのパンとエデンの園の木の実を比較した下記のような研究があります。
創世記                     ヨハネ6章
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。  「これは天から降って来たパンであり、
食べると必ず死んでしまう」(2:17)        これを食べる者は死なない」(6:50)
「人は…善悪を知る者となった。 今は、手を  「わたしは、天から降って来た生きたパンである。
伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に   このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」
生きる者となるおそれがある」 (3:22)                  (6:51)
「こうしてアダムを追放し」(3:24)   「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」
(6:37)
また本日の説教で取り上げますように、ヨハネはイエスという方を「神の言葉」として読者に紹
するために、旧約聖書の様々な表現を思い起こしながら説教したのでしょう。「主は…あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:8、9)。「わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は…主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない」(アモス8:11、12)。
本日の私の説教の結論は、「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:10、11)。このイザヤ書の「言葉」を「イエス」と読み替えると、イエスが神から遣わされて来て、地上でなさねばならなかった使命が何であったかが分かります。

 

 

神がイエスに与えた人(4/10/2016)
ヨハネ福音書は12章までが「しるしの書」、13章以下が「受難と栄光の書」と二つに別れますが、本日の説教個所で、前半のさらに半分の第1部が終わります。この部分ではイエスの宣教活動によって、多くの人が次々とイエスのもとに押し寄せて来ます。しかし民衆の人気がどんどん上がるにつれ、イエスの方では、その民衆から身を引くという皮肉な行動を取られます。
★「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」(2:23、24)。
★「イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、…イエスはそれを知ると、…ユダヤを去り」(4:1-3)
★「…更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。…二日後、イエスをそこを出発して」(4:41-43)
★5000人の給食の奇跡では「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(6:15)。
そしてイエスが「私は天から降ってきた生きたパン」というお話をされると、12弟子たちを残して誰もが去って行ってしまったという記事で、この第1部は終わります。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。その答として、6章には、イエスを信じてついて行く者は「父がイエスに与えた者だけ」という言葉が3回も繰り返されます。
★「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」(37)、
★「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(44)
★「父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない」(65)。
改革派信仰には「カルヴィニズムの5特質」という有名な教理があります。「全的堕落」「無条件的選び」「限定的贖罪」「不可抗的恩恵」「聖徒の堅忍」。これらはアルミニアン(次週の論壇で解説)が主張する「人は神が与える救いの恩恵を自由意志によって受け取る」「従って人は救われるように努力し続けなければ、恩恵からこぼれ落ちる」などの教理を否定したものですが、6章に繰り返される言葉は、重要な証拠聖句になるでしょう。
これを改革派教会は、「神の予定の教理」とか「選びの教理」とか呼んできました。私が救われたのは、私に何かの功績があったからではなく、神がそのように選んでくださったからです。しかし教会から去って行く人がいれば、それは神がイエスに与えた人ではなかったということです。その人は自己責任で去って行くのです。「神の選びと人の責任」という予定論の問題は、人間には解くことのできない神秘ですが、6章にその鍵があるでしょう。

 

 

救いへの選び(4/24/2016)
イエスの言葉「父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない」(ヨハネ6:29、37、39、44、65)は、救いに関する「神の絶対的主権性」を表わしていますが、これは「人間の自由意思と責任」とどう調和するのか。この問題を4月10日の論壇から取り扱っています。これはキリスト教2000年の歴史の中で繰り返し議論されている難問です。人間の理性では矛盾するように見えても、神様の目にはどちらも真実なのです。私が信仰をいただいたのは全く神の一方的恵みによるのであり、私に何らかの功績があったわけではありません。しかし一方では、私は自分の意思でキリストに従う決心をしたのであり、全力を傾けてこの信仰を維持するのです。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)。
アメリカでは宗教改革500年を来年に控えて、Calvinist vs Arminian(カルヴィン主義 対 アルミニウス主義)という論争がインターネットをにぎわしています。また宗教改革の古典的宗教改革者、ルター、カルヴィンなどに対する批判的研究が盛んになっていますし、幼児洗礼是非の大議論が戦わされています。このような議論は宗教改革の精神をもう一度学ぶことになりますから良い傾向です。
さてカルヴィンは神の絶対的主権を、神の選びという予定論の教理によって説明しましたが、イギリス国教会のジョン・ウェスレー(1703-1791)はキリストの贖罪の普遍性にその解決を求め、アダムの「全的堕落」後に与えられた「先行的恩寵」により、人は福音の召しに応ずることができると考えました。従ってウェスレーは「限定的贖罪」教理を否定し、十字架は全人類のためになされた。これを拒否するのは人の自由意志の行使によるのであって、神の聖定によるのではないと考えました。また自由意志によって信仰から落ちてしまう可能性を示唆しました。
改革派信仰では「先行的恩寵」を否定し、これを「一般恩寵」(世界がこれ以上悪くならないように、神が自然とすべての人に与えている、救いに関係しない恩寵)と、「特別恩寵」(選びの恩寵=神が救いに選んだ特定の人を救う恩寵)に分けて考えます。イエスは「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した」(ヨハネ15:19)と言われました。これが特別恩寵です。キリストが何の功績もない私を一方的に救いへと、無条件で選んでくださったのです。だから感謝の生活が自然に出てきますし、神による選びが人間の意志の弱さによって無効になることはありません(聖徒の堅忍)。

 

 

仮庵の祭り(5/8/2016)
本日の説教個所「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた」(7:37)背景を理解するためには、この祭りが当時どのように行なわれたかを知ることが非常に重要です。私はRaymond Brown のヨハネ福音書注解書を使っていますが、この祭りについて詳しい説明がありますので翻訳してご紹介します。
仮庵祭は秋の収穫感謝祭で、現在の暦の9月下旬から10月上旬に行なわれた一週間続く行事。これは雨ごいの祈祷の要素もある。もしこの祭りの期間中に雨が降れば、それは次に来る雨季に雨が豊富であることになり、豊かな春の収穫が期待できる。しかしこの時に雨が降らなければ干ばつを招く恐れがある。ヨルダン川の対岸に住むアラブ人たちも、イスラエルと敵対して住んでいるが、ユダヤ人たちが行なうこの祭りの時に雨が降るかどうか、注意深く見守っていた。彼らも豊かな雨を期待したからである。
祭りではゼカリヤ書が朗読された。「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる」(10:1)「その日、エルサレムから命の泉が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海に向かい、夏も冬も流れ続ける」(14:8)「地上の諸族の中で、エルサレムに上って万軍の主なる王を礼拝しようとしない者には、雨が与えられない」(14:17)。
この祭りでは厳かなドラマが毎日演じられる。一週間の毎朝、神殿の丘の南西にあるギホンの泉(それはシロアムの池に注がれる)へ、祭司たちが黄金の水差しを持って行進し降りて行く。聖歌隊はイザヤ書12:3を合唱する。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」。 泉で水を汲んだ後、行進はエルサレム神殿に向かって上り、水の門をくぐって入場する。群衆はこの祭りのシンボルであるルーラーブ(仮庵の材料のマートル(ギンバイカ)と柳の小枝を棕櫚で束ねた房)を右手に持ち、左手には収穫を象徴するエスログ(レモン)を持って行進し、ハレルヤ詩編(113~118)を歌う。行進が神殿の前の祭壇に到着すると群衆はルーラーブを振りながら一周し、詩編のホサナを歌う。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」(118:25)。祭司は銀のじょうごで祭壇に水を注ぎ、水は祭壇からあふれて地に流れる。7日目には祭壇の回りを7回行進する(326、327頁)。メシアが来る「主の日」はこの祭りの期間中であるとユダヤ人たちは信じていましたので、仮庵祭は盛大な祭りでした。

 

 

ヨハネ福音書の時代性(7/3/2016)
「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(ヨハネ9:22)。この文章の時代性について昔から議論があります。
それは、イエスの公生涯(宣教活動期間)3年の間にイエスをメシアであると「公」に告白することが、一般のユダヤ人にはなかったのではないか。また十字架後でも使徒たちはエルサレム神殿に毎日集まって礼拝することができた(使徒言行録2:46)。会堂追放という状況があったのは、ヨハネがこの福音書を書いている紀元100年頃のことであって、ヨハネはこれを福音書の中に書き込んだというのです。
ヨハネ福音書の連続講解説教を昨年9月から続けてきましたが、ヨハネはイエスの十字架後からもう70年近い年月を経て、イエスの思い出を何千回と繰り返し説教し、自分の弟子たちに語り続けてきたのです。ローマの流刑地パトモス島に流された老ヨハネの世話をするために、多くの弟子たちが回りにいたでしょう。その者たちに向かっても、ヨハネはくりかえしイエスの言動を思い出しながら語り伝えてきました。ヨハネ福音書の中には、イエスの言葉とヨハネの言葉が渾然一体となっているのです。3章のニコデモとの会話の後半などは、もう区別できないほどにヨハネの中にイエスの言葉が溶け込んでいます。
9章の盲人癒しの記述方法は、共観福音書の盲人癒し記事とは明らかに違っています。「生まれつきの盲人」が強調されますが、これは生まれつきの罪人である私たちが、「遣わされた者」イエスによって目が見えるようになることを意味します。シロアム(遣わされた者)というヘブライ語の意味がわざわざ説明されて伏線が張られています。
9章の盲人癒し記事は、初代キリスト教会の洗礼式の時に朗読されました。またローマの地下墓地(カタコンベ)にはこの事件の壁画が多く描かれています。私たちはシロアムの水によって洗われるのです。
ヨハネ福音書では最初から闇と光の対決が描かれています(1:5、9、10)イエスは自分を「世の光」であると宣言しました(8:12)。生まれつきの盲人は今まで闇の中を歩んできましたが、イエスによって光の中に導き入れられました。その反対に「見える」と言い張るユダヤ人たちは、イエスを拒むことによって、実は闇の中に留まることを選択したのです。
ユダヤ人たちは「我々はモーセの弟子だ」と自慢しました(9:28)が、クリスチャンたちは「我々はイエスの弟子だ」と主張しました。これはユダヤ教とキリスト教がはっきりと別れていく、初代教会の象徴的な言葉となり、ローマ帝国の迫害にさらされることになりました。

 

 

ヨハネ福音書における新旧交替(7/17/2016)
今まで学んできましたヨハネ福音書では、ユダヤ教の古いものがキリスト教の新しいものに交替するというパターンで話が進んできましたが、イエスはこれを、ユダヤ教の年中行事である祭と関連させて説明されることもありました。
2章の「カナでの婚宴」ではユダヤ人が清めに用いる「石の水がめ」の水が、イエスによってワインに変えられます。これはユダヤ教という戒律に縛られた喜びのない宗教が、イエスによって新しい喜びの宗教に替えられたことです。2章13節以下では過越祭に詣でられたイエスが、「商売の家」と堕落した神殿に替って、「イエスの体である神殿」を建てると言われます。3章でイエスは、ニコデモに対して「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。22節以下では洗礼者ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言います。
4章では、サマリアの女に対してイエスは、ヤコブの「井戸の水」よりもイエスが与える「永遠の命に至る水」を求めよと教えます。さらに礼拝はエルサレムでも「この山」でもなく、今「霊と真理をもって礼拝する」時が来ると言われます。
5章ではベトザタ池の水が病を治すのではなく、イエスを信じる者は「死から命へと移っている」と説教されます。6章では再び近づいた過越祭で、マナを降らせたモーセではなく、イエスこそ「命のパンを与える」メシアであると言われます。7、8章では、水と光の祭である仮庵祭を用いて、イエスを信じる者の内から「生きた水が川となって流れ出るようになる」、また「わたしは世の光である」と言われます。9章の盲人癒しでは、「見えない者は見えるように、見える者は見えないようになる」大逆転が起こると言われます。
本日の説教テキストである神殿奉献記念祭では、ユダ・マカバイオスがBC164年12月25日に、アンテオコス4世によって汚された神殿を再建し「宮清め」の祭が始まりましたが、イエスこそ「父と一つ」であって父から派遣された神殿の「御神体」なのだと主張されているようです。 イエスは羊の門、良い羊飼いです。そしてユダヤ人たちがイエスを信じないのは「メシアであるかどうかを判断するのは自分たちだ」という、ユダヤ人たちの逆転した価値観のゆえでした。このようなユダヤ人に対してイエスは「わたしの羊ではない」と最終的な絶縁宣言をし、「ヨルダン川の向こう側」へ去って行かれます。

 

 

ナルドの香油(8/14/2016)
本日の説教テキストでは、ベタニアのマリアがナルドの香油をイエスの足に塗って自分の髪でぬぐったという有名な記事を解説します。この記事については、古代から多くの問題点が指摘されてきました。それは共観福音書に同じような記事があって、同じ事件なのか、別の事件なのか分からないということです。以下にこの記事を並列してみました。
★イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、…イエスの頭に香油を注ぎかけた。…弟子たちは憤慨して言った。(マタイ26:6-13)
★イエスがベタニアのらい病人シモンの家で、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。…何人かが憤慨して言った。三百デナリオン以上に売って…(マルコ14:3-9)
★イエスは(あるファリサイ派の人)の家に入って食事の席に着かれた。一人の罪深い女が、…香油の入った石膏の壺を、…泣きながらその足を涙でぬらし、自分の髪でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。…イエスは女に「あなたの信仰があなたを救った」…と言われた(ルカ7:36-50)★イエスはベタニアで…マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。…ユダが「この香油を三百デナリオンで売って」(ヨハネ12:1-8)
さてそれぞれの記事の特徴をさらに見ていきますと、
事件が起きた地域、時期:ガリラヤでの宣教中(ルカ)、エルサレムで過越祭の前(マタイ、マルコ、ヨハネ)
場所:ベタニアのシモンの家(マタイ、マルコ)、ベタニアの誰かの家(ヨハネ)、ファリサイ派の家(ルカ)。
女:匿名の女(マタイ、マルコ)、罪深い女(ルカ)、マリア(ヨハネ)。
注いだ場所:イエスの頭(マタイ、マルコ)、足(ルカ、ヨハネ)。
香油:ナルドという名前が登場するのはマルコ、ヨハネ。
憤慨したのは:弟子(マタイ)、何人か(マルコ)、ユダ(ヨハネ)。
イエスの弁明:「葬りの準備をしてくれた」(マタイ、マルコ、ヨハネ)。
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」という説教(ルカ以外)。
このように、ルカの記事は他の3つとは全く違います。ガリラヤとベタニアで二つの事件があったのです。足に塗ったのか頭に塗ったのかという議論は、これを別のものと考える点ですでに見当はずれです。マリアが頭から、勢い余って足にも塗ったのです。頭と足で全身を表わしますから、この行為は、遺体の全身を香料で包む埋葬を意味することになったのです。

 

 

ヨハネ神学(8/21/2016)
本日の説教テキスト「イエスのエルサレム入場」は4つの福音書すべてに書かれていますが、記述の方法、強調点、道具立てが違います。この違いを福音書全体にわたって追及し、それぞれの思想体系を整理したもの、それが「福音書記者の神学」と呼ばれます。ヨハネ神学、マタイ神学、マルコ神学、ルカ神学というわけです。
本日のテキストではイエスのエルサレム入場を群衆が歓呼で迎えたことが記されますが、これは旧約聖書のメシア預言で予言されていたことでした。それをどう説明するかが、福音書によって違います。
4つの福音書の共通点は、どれも「ホサナ、主の名によって来られる方に」という詩編118:25、26を引用します。またイエスがろばの子に乗って入場したことも記しますが、これは王は軍馬に乗って入場するが、平和の主であるメシアはろばに乗るという、ゼカリヤ書9:9のメシア預言の成就であるという説明です。マタイ、マルコ、ルカでは、このろばの子をどうやって取得したかという点に強調が置かれますが、ヨハネは無視しています。またマルコ、ルカではこの子ロバが「まだだれも乗ったことのない」ことを強調し、イエスのために用意されていたと記します。
イエスを迎えた群衆はマタイ、マルコでは「群衆」、ルカでは「弟子たち」です。しかしヨハネは、群衆とはすでにエルサレムに到着していた巡礼たちで、イエスを城門の外に「迎えに出た」と記します。この「迎え」という言葉は、凱旋将軍の帰還、王の行幸を市民が迎える時に使われる言葉ですから、ヨハネが強調したい点はこれだと分かります。
またマタイ、マルコ、ルカでは、群衆が道に自分の服や木の枝を敷いてイエスを迎えたとありますが、ヨハネはこの枝を「なつめやしの枝」と特定しています。それはBC164年のユダ・マカバイオスによるシリアからの独立戦争(宮清め)の象徴的な「しゅろの葉」でした(旧約聖書続編Ⅰマカバイ記13:51、Ⅱマカバイ記10:7)。これはAD132年、ユダヤで起こったローマに対する最後の反乱時、シメオン・ベン・コセバが発行したコインの図柄にもなりました。このしゅろの木(なつめやし)を記念して、欧米の教会ではイースター前の日曜日を「しゅろの日曜日」(Palm Sunday)と呼びます。
特に重要なのは、ヨハネが「シオンの娘よ、恐れるな」と旧約聖書を引用する時、これはゼカリヤ書9:9の「娘シオンよ、大いに踊れ」ではないということです。これはゼファニヤ書3:16の引用であり、ヨハネはゼファニヤとゼカリヤを混合引用しているのです。ゼファニヤ書では「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」「お前の主なる神はお前のただ中におられる」、すなわち神様ご自身が入場されるというメッセージなのです。

 

 

ヨハネ福音書前半の終わり(9/11/2016)
本日の説教個所12章までが、ヨハネ福音書の前半です。これは「しるしの書」と呼ばれ、ヨハネはイエスの7つの奇跡だけを記録しました。13章以降の後半は「受難と栄光の書」と呼ばれ、十字架直前でのイエスの説教、祈り、逮捕と裁判を描き、十字架と復活で結びます。
ヨハネは前半を終えるにあたって二つの事柄を記します。その一つはキリスト教会が紀元1世紀に誕生し、地中海世界に広がっていく中で最も議論された問題、「ユダヤ人が待望していたメシアを、なぜユダヤ人は拒絶したのか」または「神の選民であったはずのユダヤ人はなぜ救われないのか」という「ユダヤ人問題」です。当時のローマ世界の知識人たちも尋ねました。「一番旧約聖書を知っているユダヤ人たちが否定するのなら、どうして我々が信じることができるだろう」。2世紀になると、護教教父ユスティヌスという人がユダヤ人トリュフォンと、この問題について議論した書物があります(『トリュフォンとの対話』)。
ヨハネ福音書よりずっと前に書かれたローマ書で、パウロはこの問題について長い論文を書きました(9、10、11章)。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりました」(11:11)。
ヨハネの説明はパウロと異ります。「ユダヤ民族が信じなかったことにおいて、イエスは預言されていたメシアだと分かったのだ。なぜならイザヤが預言したことがイエスにおいて成就しているからだ」。これはイザヤ書6章で神がイザヤに託された預言(説教)は、「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし悟るな…悔い改めていやされることのないために」(6:9、10)という不思議な宣教命令でした。また53章の「受難のメシア」で預言されたとおりのことがイエスの上に起こったことから分かる。これがヨハネの説明です。
二番目は、ヨハネはこの福音書の前半を閉じるにあたって、イエスの今まで言われた説教を要約して、再度ここに編集して強調しています。注解者によっては「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された」(12:36)のだから、「イエスは叫んで、こう言われた」(12:44)のは矛盾する。誰も聞き手がいないではないか。だから44~50節は36節aの後につなげるべきだ、と主張する者もいます。そうではありません。44~50節は、ヨハネ福音書全体の、前半第1部を総まとめする、ヨハネの編集句なのです。

 

 

聖霊論(11/20/2016)
イエスの遺言説教(ヨハネ福音書14~16章)では、聖霊に関する教えが集中して扱われます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者」を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」(14:15~17)
「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(15:26)
「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:7)
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(16:13)
聖霊なる神は、天地創造の前から父なる神と共に存在され(創世記1:2)、先在の御子と共に天地を創造されました(箴言8:22~31)。創造後の自然界における聖霊の働きは、摂理の働きによって万物を保っておられます(詩編104:20)。御子が時間の中に現れた時、聖霊はマリアに降り(ルカ1:35)、イエスの生涯全体にわたって、聖霊はイエスの上に限りなく注がれました(ヨハネ3:34)。
聖霊は、イエスの地上生涯が終わると、父と御子から派遣されて(ヨハネ14:26)、イエスに代って登場し、ペンテコステにおいて教会を誕生させました(使徒言行録2章)。この後聖霊は、パウロたちの伝道旅行の旅程に介入し(使徒言行録16:7)、説教を聞く者の心を開くなど(16:14)積極的に教会建設を助けられます。現代では聖霊は教会の中と(Ⅰコリント3:16)、信者一人一人の中に(Ⅰコリント6:19)住んでおられ、私たちが聖書を読み、説教を聞くときには、特別に私たちの心に働きかけられます(Ⅰコリント2:10、11)。

 

 

イエス・キリストの名によって祈る(12/4/2016)
世界には様々な宗教がありますが、祈りの最後に「〇〇の名によって祈る」というのは、キリスト教以外では聞いたことがありません。従って「イエス・キリストの名によって祈る」ということがキリスト教最大の特徴と言えるでしょう。私たちはなぜこのように祈るのでしょうか。それはイエス自身がそのようにヨハネ福音書で教えたからです。
「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(14:13)
「私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと」(15:16)
「あなたがたが私の名によって何かを父に願うならば」(16:23)
「あなたがたは私の名によって願うことになる」(16:26)
ウェストミンスター信仰基準は下記のように教えています(要約)。
小教理98問:祈祷とは何ですか。答:キリストの御名によって、神に私たちの願いをささげること(この証拠聖句が16:23)。
大教理180問:キリストのみ名において祈るとは、何であるか。答:キリストの命令に服従し、またその約束に信頼して憐れみを願い求める。
大教理181問:なぜキリストのみ名において祈らなければならないか。
答:我々は仲保者なしに神のみ前に近付くことができないから。
つまり、キリストが神と人間の間に立つ「仲保者」であることが最も重要なことです。罪あるすべての人間は神の前に立つことはできませんから、仲保者なしでは人間は滅びるしかありません。
諸宗教では人間が「神」に直接訴えることができます。「神」と人間との距離が短かく、親しい関係です。神に何かを祈る資格が自分にあるだろうかと反省することもありません。ここに真の宗教の厳しさがあります。今年の流行語大賞はプロ野球から採られた「神ってる」だそうですが、これほどまでに日本人の神観は安っぽいのです。普通の人の能力を越えたものは何でも神になってしまうのです。
仲保者は過去・現在・未来、全人類の代表でなければなりません。また私たち人間の苦しみを、自分の苦しみとして分かる人でなければなりませんから、人から生まれた真の人間でなければなりません。しかし神の前に立つ罪なき人、人間を救う能力を持った神でなければなりません。
人であり神である(二性一人格)者など、人類の中から生まれて来るはずはありませんから、神はご自分の第二位格(子なる神)を受肉させ、人として生まれるために、人類の中に送り込んで来られました。これがクリスマスの意味です。従って神に向かって直接祈る資格などない私たちは、神と人との仲介者、イエス・キリストを私の救い主、仲保者として、この方の名によって(名を引き合いに出して)祈るのです。

 

 

イエスの遺言説教のまとめ 12/11/2016
ヨハネ福音書14~16章にあるイエスの遺言説教を、10月9日から6回にわたって講解しました。本日の説教でこの部分は最後になります。この間に、宗教改革記念日説教、講壇交換、新会堂感謝説教と、3回の中断がありましたので、ここでもう一度、遺言説教の構成を、整理して覚えたいと思います。今年残り2回の主日は、次週の待降節説教、25日のクリスマス説教と続きますから、ヨハネ福音書からは一たん離れます。新年1月第2週から、次の「大祭司の祈り」(17章)に入ります。
遺言説教は弟子たちの3つの質問に答える形で構成されています。
Ⅰ14:1~21=ペトロとトマスの質問「主よ、どこへ行かれるのですか」(13:36、14:5)に対して、
①、弟子たちのために「場所」を用意しに行く(1~11)。イエスが「道であり、真理であり、命である」(6)から、またイエスと父なる神が一つだから、それが可能。
②、イエスは弟子を置き去りにするのではなく、真理の御霊という別の助け主を送る(16)。しかしイエス自身が帰って来る(21)ので、これはイエスの別の姿。「御父のもとに、弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(Ⅰヨハネの手紙2:1)。
Ⅱ14:22~16:16「私たちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜですか」というユダの質問(22)への答。世と弟子たちとの違い。
①、我々がイエスを愛し、イエスの戒めの言葉に従うことにより、イエスが我々のところに来て「一緒に住む」(23)
②、弁護者なる聖霊が、イエスが話したことを全て思い起こさせる(26)
③、イエスと我々との関係は、ぶどうの幹と枝の関係のように、有機的なつながりであり、共通の命が両者にある。さらに、父なる神が枝のせん定をされる。枝が幹につながり続けようと意志しなければ「取り除かれる」(15:1)。
④、世とクリスチャンの関係=「世はあなたがたを憎む」なぜなら「あなたがたは世に属していない」(19)から。
⑤、イエスが去ることによって聖霊が来る。この方は我々を真理に導く。
Ⅲ16:17~28「『しばらくすればわたしを見るようになる』とは何のことだろう」の質問に対する答。十字架による別れは「しばらく」に過ぎない。この悲しみは喜びに変わる。それは子供を産む女のよう。十字架によって全く新しい人種、イエスに続くクリスチャンという人種が産まれる。だから勇気を出せ。イエスはすでに世に勝っている。

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