讃美歌の不快語について

論壇:      讃美歌の不快語について      9/12/2021

クリスマス讃美歌に多く見られる「不快語」について、私たちはどのような態度を取るのか教会員に説明するようにと小会に依頼されました。1988年日本基督教団出版局讃美歌委員会は「讃美歌における不快語の読み替えについて」との一文を讃美歌に折り込んで販売するようになり現在に至っています。その主な内容を簡単にまとめました(数字は讃美歌の番号と節)。

 

「賎が伏屋」→「祈りの家」(59:2、124:2も同じ)

「はしためをも」→「わが身なれど」(95:2)

「愚かなる人は」→「悟りなき人は」(97:1)

「高きも低きも」→「すべての人々」(97:3)「すべての者みな」(223:2)

「いやしき賎の」→「み霊によりて」(98:2)

「賎の女をば」→「おとめマリヤ」(111:2)

「まずしく低き木工として」→「人の住いをととのえつつ」(122:2)

「水夫もまどう」→「弟子のさわぐ」(126:1)
「ここには義しき人のみ住めば、卑しき醜き影だに見えず」→「神のみ

畏るる民ともにいて、醜くき争い 影をぞひそめん」(231:2)

「わがやまとの国を」→「わがあいする国を」(415:1)

「卑しき者の内にいたもう」→「さびしき者を訪れたもう」(469:2)

なお、当教会ではメロディー的に好まれないので、59,124,126,223,231番はほとんど歌ったことがありません。特に415は全くありません。讃美歌第二編と交読文は省略しますが、全体を見ると低、賎、卑という言葉が人に不快な感情を与える言葉として排除されています。これらは神の前に立つ私たちが全くの罪人であり恥ずかしい者であると自分で自分を蔑んでいる言葉です。人間同士が、あいつは卑しい、低い、醜いと価値判断しているのではありません。神が用いられる人物は、高貴な身分、地位が高いからではなく、何のとりえも無い、この世の基準で見ても全く低い者が、神の高貴な計画に用いられるという驚きを表したものです。自分を卑下しへり下っている表現ですから、歌詞を言い換える必要はありません。

またこれとは別に『讃美歌21』を私たちの教会が採用しない理由は、不快語は排除されましたが、文語調の美しい調べが損なわれたことが大きな理由です。現行の讃美歌276番と讃美歌21-156番を比べてください。

「光と闇との行き交う巷 いずれの方にか つくべき我が身。燃え立つ命を 御前に捧げ 今しも行かばや 真の道を」

「光と闇とが戦うこの世。正義と不義とが争う所 今こそ我らの決断の時。

ためらいひるむな 悔いを残すな」

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