礼拝論、5 献金

論壇:        礼拝論5、献金        4/22/2018

今まで4回、この論壇で礼拝について学んできました。論壇のバックナンバーをお読みください。招きの言葉、罪の告白、赦しの宣言=2/18、聖書朗読=2/25、説教=3/4、聖書の霊感論(補足)=3/18、賛美=4/8。

本日は「ささげもの」(献金)を学びます。公的礼拝ではなぜ献金というプログラムが必須なのでしょうか。教会を経済的に支えるという目的ならば、会員各自が毎月、自分で決めた献金額を自分の口座から自動引き落としするという方法も考えられるでしょうか。ドイツでは教会税を国民から徴収しており、その額は所得税の8~9%と言われます(これが原因で近年は教会離脱者がどんどん増加しているそうです)。しかし私たちはそのような方法は採りません。なぜなら礼拝の本質の一つが献金だからです。

旧約聖書に登場する最初の礼拝はカインとアベルの礼拝ですが(創世記4:1~5)、この礼拝形態は犠牲をささげることが主でした。犠牲は生活の糧を与えてくださる神に、感謝のささげものとして収穫の一部を返すことですが、罪の悔い改めの表明でもありました。レビ記では犠牲の意味は多様化し、すべてを焼き尽くす悔い改めの全焼の犠牲のほかに、一部をささげて残部を参加者が共に食べる、喜びを表明する犠牲もありました。

ヘブライ人への手紙では「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(9:22)とあります。人の罪を神の前に告白するには動物犠牲が用いられました。しかしこの犠牲は繰り返し行う必要がありました。すべての人間の罪の赦しは、そのような限界ある犠牲では神を満足させることはできませんから、神の独り子イエスの血が必要でした。言い換えると、新約の教会が誕生するためには、イエスという最大の犠牲が必要だったのです。このことに感謝して、私たちは礼拝のたびごとに、自分でできる最大限の献金をささげるのです。

私たちは宴会に招かれれば、何らかの手土産を持参します。その会合が重要なものであればあるほど、それに相応してどれほどのものを持っていくべきか思案します。自分を追放しようとする親族会議などというものであるなら、大金を宥めの供え物(賠償金)として用意するでしょう。神様が私たちを招かれる(招集される)公的礼拝ならば、手ぶらで出席するわけにはいかないでしょう。

献金とは自分の罪の悔い改めの表明であり、神への感謝のささげものです。「会費」ではありません。従って献金する時間は礼拝時が最もふさわしいのです。集められた献金は執事会が管理し、あらかじめ会員総会で決められた予算に従って配分されます。献金は教会を維持する方法であり、伝道活動を活性化させる手段でもあります。

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