新約聖書の旧約引用

論壇:       新約聖書の旧約引用        9/9/2018

ペトロの旧約聖書引用について、説教では触れませんでしたが、昔から問題になるテキストがあります。それは「サラは、アブラハムを主と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも…サラの娘となるのです」(1、3:6)というペトロの聖書解釈です。この箇所「サラはひそかに笑った。…自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思った」(創世記18:12)では、サラはアブラハムを尊敬して「主人」と呼んだのではありません。ペトロは使われた言葉だけを引用したのです。そうするとペトロのこの解釈は正しいのだろうかと疑問が生じます。

また、新約聖書の旧約聖書引用で、昔から問題になる有名な箇所があります。「ヨセフは…夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り…そこにいた。それは…主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」(マタイ2:14、15)。これは「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(ホセア書11:1)の引用です。

この箇所はイスラエルの出エジプトについて述べているのであって、未来に出現するメシアについてではありません。マタイはどのような意味でホセア書の聖句がイエスにおいて実現したと言ったのでしょうか。今までに3つほどの解釈がなされてきました。

①マタイはこの聖句が、ホセアの意図を越えたイエスについての予言であると、神からの特別な啓示によって悟った。(カトリックに多い解釈)

②マタイはホセア書に描かれているイスラエルの姿が、イエスの予型であると考えた。(予型論的解釈)

③ホセア書にはより大きな文脈の中で、将来の新しい出エジプトが語られていたのだが、それを実現したのがイエスであったと、マタイは考えた。

プロテスタントでは②と③の解釈が多いのですが、かなり無理な解釈です。その理由の一つとして、ホセア書のこの聖句は、ユダヤ教の釈義において、メシア聖句として解釈されたことがないという点があります。

正しい聖書解釈方法は、文法的解釈(文章の正しい意味を文法的に分析する)と、歴史的解釈(著者は誰で、いつ、どういう読者を想定して書いたかを分析する)ですが、この二つの方法だけでは上記の解釈は出てきません。「聖書記者の旧約聖書解釈は、歴史的・文法的解釈に縛られていなかったから、執筆時に特別な霊感が与えられたのだ。それは使徒たちにのみ許された特権で、現代の私たちにはこのような解釈は許されない。」と言われるのですが、このように簡単に済ませることができるでしょうか。

10月から、改革派神学研修所夜間聖書教室で、私は5回の「聖書解釈学の歴史とポストモダン」という講義をします。乞ご期待。

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