宗教改革運動 4、カルヴァン

論壇:       宗教改革運動 4、カルヴァン     11/8/2020

95カ条の提題(1517年)はカルヴァンが8歳の時でした。ルターの26年後に誕生したカルヴァン(1509-1564)にとって、幼少から死の時まで、彼の一生は宗教改革運動と宗教戦争の真っただ中でした。

カルヴァンは14歳でパリ大学に入学し、哲学、神学を学び、その後ブルージュ大学で法学を学びました。1534年の檄文事件(注)によって多くの者がフランス国外に亡命しましたが、カルヴァンもバーゼルに亡命し、有名な『キリスト教綱要』初版本を発行し(1536年)、これによって神学者としての名声が広まりました。

同年スイスのジュネーブに招かれ教会の宗教改革に協力します。しかし当時の教会は市議会の支配の下にあり、牧師の任命権は市議会が持っていました。カルヴァンはこれを改革し、世俗と教会の司法権を区別し、教会を市議会から独立させますが、当局は教会勢力を恐れて彼を追放しました。しかし混乱に陥ったジュネーブの市民はカルヴァンを指導者として再び招き、彼は生涯をここで過ごしました。

ルターは教会のマークス(印)は、正しい説教と正しい聖礼典の二つであると教えましたが、カルヴァンは「戒規の純正な執行」を加えました。これはルター派と区別されるプロテスタント共通の信条となりました。彼は「兄弟の罪を互いに戒める」クリスチャン生活の模範を文字通り実行したのです。「日本基督改革派教会創立宣言」にある「カルヴィンの働きしジュネーブ教会が信仰生活に関して模範的実績を示せしは周知の事実なり」という一文はこのことをさしています。

カルヴァンは教会による全市の厳格な統治を行い、市民の日常生活にも厳しい信仰生活を求め、不誠実な生活をする者を聖餐式から除くという戒規を行うことによって「神権政治」との批判を招きます。後の歴史家は彼を専制君主と批判しますが、カルヴァンは「ただ神の栄光のために」と常に神中心を貫き、聖書と教会については決して妥協しませんでしたのでこのように誤解批判されることになったのです。

彼はジュネーブ教会で毎日聖書を解き明かし、聖書66巻のほとんどを解説した註解書を発行しました。また教理教育と信徒教育を重要視し、『ジュネーブ教会信仰問答』『信仰の手引き』などを出版し、また神学校としてジュネーブ大学を創立しました(1559年)         

注:カトリックの教義を批判する文書がパリ、オルレアンの

諸都市に張られたが、国王の寝室の扉にまで張られたことに

より、プロテスタントに大弾圧が加えられた。

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