宗教改革運動 1、前史

論壇:         宗教改革運動 1、前史     10/18/2020

今月末は宗教改革記念日です。1517年10月31日、ルターが免罪符(免償符)に反対する95カ条の提題を、ヴィッテンベルク城塞教会の扉に掲げることによってヨーロッパ宗教改革運動は始まりました。その原因と時代背景をしばらく考えてみます。

、教会の権力が大きくなり過ぎた。

313年、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝は、母ヘレナの影響によってミラノ勅令を発付し、キリスト教を公認します。392年にはテオドシウス帝がこれを国家宗教としました。西ローマ帝国は476年に滅びますが、中世の中ごろ(9~10世紀)までにヨーロッパのほとんどがローマ・カトリックに改宗しました。ローマ教皇は「キリストの代理者」と呼ばれ、諸国の王から土地の寄進を受けて大きな権力を持つようになり、フランスやドイツの土地の半分までが教会領となりました。

世俗の権力において巨大になることは宗教の堕落を意味します。司教の地位は金銭によって売買され、その金は教皇庁に集まります。さらに諸侯から取り立てる税金のほかに、教会は庶民から「免償」として巨額の献金を吸い上げました。これをねたんだ諸侯は教皇庁との果ての無い争いを繰り返し、勝ったり負けたり、時には教皇庁の分裂となりました。

宗教改革運動は世俗の国家権力とローマ・カトリックとの争いの中で起こったものでもあるのです。

、グーテンベルクが金属活版印刷技術を発明し、1455年にはグーテンベルク聖書(ラテン語)が印刷されました1522年にはルター訳聖書が印刷され1グルテン(ギルダー)半で販売されました。これは牛1頭の値段と言われます。印刷技術が広まり多くの人が聖書を自分の目で読むようになると、教会の間違った教えに対し、聖書を根拠にした議論が広まりました。また神学・哲学・歴史など有名な古典が次々に出版されるようになり、正確な知識に基づいた議論ができるようになりました。

、東ローマ帝国の滅び:キリスト教化されたギリシャ人のローマ帝国とも呼ばれ、ビザンティン文化として栄えた東ローマ帝国は1453年、オスマントルコによって滅ぼされます。この時、古代ギリシャ文化の多くの文献、古典がコンスタンティノープルから逃れて運び出され、西ヨーロッパのルネッサンス運動に多大な影響を与えました。ホメーロスやキリスト教教父の文献にじかに接することによって「古典に帰ろう」というルネッサンスの人文科学の発展と宗教改革とは、切り離して考えることができません。

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