ヨブ記、4

論壇:         ヨブ記、4        6/13/2021

過去3回のヨブ記の説教では1章から27章までを要約的に解説しました。本日は28章から37章までをスキップして、38章以降の神の顕現の説教です。説教を省いたこの部分を概説します。

先週の週報論壇の、友人との3回の議論の要約をもう一度お読みください。結局友人たちは、ヨブが犯した何かの罪の故にこのような罰を受けているのだ。だから罪を悔い改めて神に赦していただくように、という応報思想に基づく忠告をします。しかしヨブにとって「完全なる偉大な神」の存在は恐怖にはなっても慰めにはならないのです。ヨブは頑として「身に覚えのない罪で私は痛めつけられているのだ」と弁明します。友人たちはこのようなヨブの態度こそが傲慢で不信仰なのだとヨブを責めます。

28は全体の間奏曲で「神の知恵の賛美」と標題がついているように、知恵を探し求めることは、鉱石を探し求めるような人間的技術をいくら追求しても見出すことはできない。知恵は神から与えられる賜物だから「主を畏れ敬うこと、それが知恵」と結論づけます。

29~31章は「ヨブの嘆き」で、過去の幸いの回顧(29)、現在の悲惨さ(30)、無実の主張(31)です。ヨブは○○のような悪事をしたことは「決してない」と14回も繰り返して主張します。ここまでのヨブの弁明を総括し、神への挑戦というクライマックスをなしています。

32~37章の長い部分は4人目の友人エリフの演説ですが、この人物はヨブ記のこの場所以外には全く登場しません。また42:7の神の判定にも出てきません。エリフの弁論は3人の友人たちの応報思想をよりきめ細かく展開しますが、教義的論理に終始し全くの一人舞台です。このことからエリフの弁論部分は後期加筆だと言われます。つまりエリフの部分はなくてもヨブ記は成立すると考える学者が多くいます。しかしヨブのように「高潔な人物こそ陥りやすい誤り」を検証するのがエリフの意図で、この部分はヨブ記全体にとって必須の部分だと考える学者もあり、解釈は両極端に分かれています。

31章終わりの「ヨブは語り尽くした」の続きは38章初めの「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と続くのが自然でしょう。

38から神御自身がヨブの前に顕現されますがヨブの質問には全く答えません。神の自然支配のどんな業でさえ、ヨブには全く不可能だと知らせるのみです。友人たちとの「かみ合わない議論」が、神とヨブの間でも起こったのでしょうか。いいえ、「神について知る」ことではなく「神に出会う」ことがヨブを救ったのです。

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