モーセ

論壇:           モーセ         11/10/2019

今年の2月10日から、新しい説教シリーズ「旧約聖書の重要個所」を始めました。本日は申命記の最後です。これで創世記から申命記までの「モーセ五書」を終え、次週はヨシュア記に入ります。

「モーセ五書」には旧約聖書のほとんどの指針が含まれています。つまり「神はどんな方か」「神は何を人間に命令されたのか」「人間は何のために存在するのか」「メシアが来られる」などです。

ヨシュア記以降の歴史書、預言書には、偶像礼拝に傾いていくイスラエルの姿と、それを警告した預言者の姿が描かれます。モーセ五書とヨシュア記では、神様が人間の具体的な歴史の中で、奇跡を起こして直接の介入をされますが、列王記になるとほとんど奇跡は起きません。神様が直接イスラエルを治められる神権政治は、子どもを無菌状態の中で育てるようなものです。偶像礼拝というばい菌だらけの古代社会で、イスラエルは聖なるものと俗なるものを見分け、雑菌(偶像)に対する抵抗力を持たねばならないのです。私たちも今の時代に、神様がなぜ奇跡をもって直接介入してくれないのかと不平を言うことがあります。神様がこの世界を支配しておられる摂理は、信仰の目で見なければ分からないのです。神様は私たちの祈りと努力をも用いて、この世をコントロールしておられます。

神の代弁者モーセは王、祭司、預言者の三職を兼ねていますが、このような人物はモーセだけです。モーセが「主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を立てられる」(申命記18:15)と言いました「私のような」とは三職を兼ねていることです。その後の歴史には、三職を兼ねた人物はイエス・キリストまで現れませんでした。サムエルは預言者と祭司を兼ねていましたが、王政を導入しました。ダビデは王の職務だけでした。尤もペトロは「ダビデは預言者だったので」(使徒言行録2:30)と言いますが、これは詩編16:10の解釈から来ています。

「モーセの歌」と詩編90編の「モーセの詩」、どちらも人間のはかなさと神の永遠性がテーマです。モーセにとって荒野の40年の苦しみは耐えがたいものだったのでしょう。神様の前に不平ばかりを訴える奴隷根性の抜けない烏合の衆を相手に大変な苦労ばかりでした。そしてついには約束の地の目前で入るのを止められてしまいます。そして「だれも彼が葬られた場所を知らない」孤独の中で、モーセには神様だけが支えでした。「人生はため息のように消えます」「人生の年月は・・労苦と災いにすぎません」(詩編90:9、10)。これは信仰者の苦しみをモーセに投影させた告白です。イエスの変貌の場面(マタイ17:1-13)にモーセとエリヤが登場するのは、二人が旧約聖書を代表しているからです。

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