「既に」と「未だ」の神学

論壇:     「既に」と「未だ」の神学      8/7/2022

「ヨハネの黙示録」ではイエスの再臨について「時が迫っている」(1:3)、「わたしはすぐに来る」(3:11、22:7、12、20)という言い方で、これを未来の出来事として描きます。しかし他方では「大バビロンが倒れた」(18:2)、「神である主が王となられた」(19:6)という未来の出来事を、完了形の動詞を用いて表現します。これは最後の審判も神の国実現もすでに完了したという意味です。

イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11:20)、「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」(ルカ10:18)という言い方で神の勝利は既に勝ち取られたのだと断定されます。

しかし他方では「御国が来ますように」(マタイ6:10)と主の祈りで祈るようにと教えられました。これは未来のことです。従って聖書の書き方は「既に」と「未だ」の同時存在を教えている。従ってクリスチャンの生活は実現の感謝と未来期待の間の緊張下にある。御国は未だ来るべきもの、しかも常に現在している。…これはパラドックス(逆説)かもしれないが、この緊張こそがクリスチャンの大きな力である(CHドッド『キリストの来臨』)。

「ヨハネの黙示録」は主がヨハネを霊に満たし、幻視させた「神の計画」です。それは過去・現在・未来という時系列に関係なく、神の国完成に至るまでの出来事を、神の心の内にあるままに、ヨハネに教えられたものです。

初代教会では「神の国到来の遅延」が話題になり、それでペトロは「一日は千年のようで、千年は一日のようです。…ある人は遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのでありません。…あなたがたのために忍耐しておられる」(Ⅱペトロ3章)と弁明したのだと説明する神学者がいます。

これは未来に起こることが確実であると強調するため、動詞に過去形を用いるという、聖書の超時間的描写の癖を知らないからです。神は「時間の外におられる方」ですから、天地創造の初めから神の国完成に至るすべての歴史の全貌を「今」見ておられます。その神の目の見る光景をヨハネに見せているのです。人間は未来を見ることができませんから不安になりますが、ヨハネは神の視野を与えられて「時間の外」から黙示録を書いたのです。

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